近代西欧は、人間知性(理性の光)をもって、

人類の歴史*を変革しようとした。

   人類の歴史とは、

   過去 数千・数万・数十万・数百万年・・・の人類の悪業、所謂 宿業である。

しかも、これを 個人においてするにとどまらず、

社会全体で、つまり 共同体挙げて 成し遂げようとして、

種々の革命*を遂行してきたわけだが、

    種々の革命とは、科学革命・産業革命・政治革命etc.

その結果が、今日の不安に満ちた人類の世界である。

 

 

一方、釈迦は 北インド各地に その法輪を転じたが、

それは 社会に革命を起こそうとしたものではなかった。

世俗社会のなかに手を突っ込んで、

これを模様替えして、理想社会を実現しようとしたのではなかった。

   このことを象徴的に示しているのが、

   菩提樹下の覚りののち、世の中を観じ その愚かさに絶望して、直ちに涅槃に入ろうとしたのを、

   梵天によって押しとどめられ、転法輪の歩みを始めたという物語であろう。

 

釈迦のみならず、龍樹も天親も 曇鸞も善導も 法然・親鸞も・・・ 

仏教徒は みな、その社会(共同体)を変革して、

この世に理想社会を実現しようとしたのではない。

 

仏教は、我々 苦悩の衆生を救おうとするものだが、

しかし、近代西欧のように、

苦悩に満ちた世界である この社会の変革を目指さない。

これは いったいどういうことだろうか?

 

 

同族から 王になるべく期待されて育てられた釈迦は、

釈迦族の国の独立を保って、他国の侵略に備えるべく、

これを整え 運営統治していくという、

自分に課せられた社会的責任を放棄して、「出家」した。

 

すでに、彼は、生れ落ちるや、天上天下唯我独尊と宣べたという。

 これは つまり、自分が この世に生まれてきたのは、

 ”ただ、わが釈迦族だけが この世で尊い”として、

 自分のイノチを釈迦族という共同体のために捧げるためではなく、

 

天上天下我独尊。  

 他国から 自国の独立を守ることよりも、

 同胞の生活を 経済的に豊かにすることよりも、

この世に受けた わが身 一身の生の苦悩の解決の方がもっと重要である

――― という、彼のこの世に生まれてきた使命の宣言であったろう。

 

共同体よりも この「われひとり」の問題の方が尊い。

 

個人は共同体の中に埋もれて、その生涯を終えるという 

今までの生き方に対して、 ここに 人類史上初めて、

共同体の中に埋没した生き方ではない生き方を提示することが

自分のこの世に生まれてきた役割(出世の一大事)だと宣言したのである。

 

これが、この 天上天下唯我独尊という言葉であったろう。

 

釈迦は、人類史上初めて、

この「われ」の変革を通じてのみ、

本当の社会(共同体)の変革は可能なのだ

――― という問題設定*を見出していたのである。

   * これが 「泥中の白蓮華」という譬えの意味であったろう。

 

     しかし、真宗教団は 蓮如の「真俗二諦」の教説によって、

     社会体制に従順なることを第一とし、

     念仏を 「われ」の心の中だけの問題に局限したために、

     仏教の旗印たる 「  願わくは、 普く もろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん 」を、

     ただ 「 願わくは、安楽国に往生せん 」と読んで、

     社会変革(「普く もろもろの衆生とともに」)への道を自ら閉ざし、

     ふたたび共同体のなかに埋没して 独善仏法に陥ったのである。

 

     釈迦は 韋提希だけに法を説いたのではない。

     頻婆沙羅にも 阿闍世にも 提婆にも・・・説いたのだが、

     このことを、親鸞は 注意しているにもかかわらず、

     真宗教団は、ただ韋提希だけに法を説いたというふうに、

     釈迦のはたらきを矮小化したところに成り立っているのである。

 

 

                                     合掌