道綽禅師

 安楽集 第二大門第三 広施問答

        の第2問答 

          (曇鸞大師の『論註』上巻八番問答の第6を引きながら)

 

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 この問答は、『観無量寿経』などの経典に

 

  その一生に 悪ばかり造った者であっても、

  その臨終に 善知識に遇って、念仏を勧められ、十声念仏すれば 往生する

 

などと記されているが、

そう教えられて、長年にわたって念仏申す者でも、

仏の国に生まれるどころか、その日々の生活は 仏とも法とも知らぬテイタラクである。

まして、その臨終のたった十声の念仏で 

清浄真実の世界たる 仏の国に往生するなどとは、

とんでもない騙りである。

 

――― という ふつうの我々の感覚に対して、

経典が語ることの正しさを 明らかにしよう というのである。

 

 

                       本文                  

 

 

   問うて曰く。
   大乗経にいわく。業道は秤(ハカリ)のごとし。重き処 先ず 牽(ヒ)く。
   いかんが 衆生、一形以来 或は百年 或は十年 乃至 今日まで 悪として造らざるはなし。
   いかんが 臨終に 善知識に遇い、十念相続して すなわち 往生を得ん。
   もししからば、“先ず牽く”の義、何をもって信を取らん。

                          ※  一形(イチギョウ): 一生涯
 

   答えていわく。

   汝、一形の悪業を重し と為し、下品人の十念の善をもって軽しと為す と謂うは、

   今 当に 義をもって 軽重の義を校量せば、

   まさに、心に在り (在心) ・縁に在り (在縁) ・決定に在り (在決定) て、

   時節の久近多少には在らざることを明かす。

 

   いかんが在心。 

   ・・・・

   二に、いかんが在縁とは、

   謂く。 かの人、罪を造る時は、

   自ら妄想に依止し、煩悩果報の衆生に依りて 生ず。

   今、この十念は、

   無上の信心に依止し、阿弥陀如来真実清浄無量の功徳の名号に依りて 生ず。

 

   譬えば、人有りて、毒の箭に中てられて、筋を徹り 骨を破るに、

   もし、滅除薬の鼓(ツヅミ)の音声を聞かば、

   すなわち、箭 出で、毒 除こるがごとし。

   豈、かの箭 深く、毒 劇しくして、鼓の音声を聞くも、箭を抜き、毒を去ること能わず

   と言うことを得んや。

   ・・・・

 

 

                     考究                                

 

 

  在縁の「縁」 というのは、 因縁の“縁” であるが、

  これを、成唯識論では、

    第六識に在り。識の所変たる五取蘊の相を“縁ず”。

  と釈している。

 

   五取蘊(ウン)とは、色・受・想・行・識。 

  色は <外>の世界にあるもの、 他の4つは わが<内>にある作用。

   したがって、

  「縁」とは、何を縁ずるか? 

  いわく、五蘊 つまり 外縁 と 内縁 とである。

 

  そこで、本文には、

    我々が 罪を造る時、

   自ら妄想に依止し、煩悩果報の衆生に依りて 生ず。

  ——— と。

 

   自らの妄想の心において、煩悩果報の衆生を”縁”じて、罪は造られる

 

  というのである。

  ここで、縁ずるのは、先の成唯識論にもあるように、

  外のものを縁ずる(外縁)の と 内のものを縁ずる(内縁)の と2つある。

 

   まず、外縁 について。

  たとえば、原爆投下という罪悪。

  この場合、妄想の心とは何か? 煩悩果報の衆生とは何か?

 

   原爆投下の作戦を策定し、これを決定した者たちの心が、「妄想心」ということであろうが、

  ただ、これだけにとどまらず、彼らをして この作戦を可能にさせた者たちもいる。

 

   つまり、核の連鎖反応によって莫大なエネルギーが放出されるという事実を知らなければ、

  この作戦はなかったのである。 物質の質量とエネルギー量が等式で結ばれるという発見を

  した者がいなければ、この作戦はなかったのである。

   また、この核爆弾を はるばる広島・長崎に運んで その上空で炸裂させるためには、

  高高度を飛行する航続距離の長い飛行機がなくてはならなかった。これらが作られていて

  はじめて、この作戦は可能だったのである。

  

   これらは、科学技術の発展をバックに努力をした 多くの科学者や技術者があって、

  その成果によって、この作戦は可能となったのである。

  ――― これらの“縁”がなければ、原爆投下という罪悪は けっしてなかったのだ。

  この縁となるものが 「煩悩果報の衆生」 であった。

  つまり、科学者や技術者であり、彼らに資金を提供した 産業・金融資本家たちであったろう。

 

 

   次に 内縁 について。

    引き続き 原爆投下を例にとって考える。

   原爆の罹災者にとって、内縁とは 何だろうか?

    本文では、「 煩悩果報の衆生 」とある。

   これは、どういうことか?

 

    原爆に被災したという事態を招いた”縁”は何か? 

   しかも 外縁ではなく 内の縁は?

   もちろん、それは 大日本帝国が アメリカ合衆国との戦争を始めたということであるが、

   しかし、明治の文明開化以来 脱亜入欧に勤しんだ罹災者らの過去*がそこにあったのである。

                    * それが、罹災前の広島や長崎の街並みであり、

                       そこでの人々の営みであった。

    明治維新が、「 妄想心に依止 」して為され、

   日本民族の老若男女 無慮3000万の その虚妄顛倒心の展開70余年で、

   この事(造罪時)に遭遇したのである。

 

   この結果を招いた責任が、

   この間の 上下のすべての日本人(の営み)にあったのだ。

   これが、「 煩悩果報の衆生 」という内縁だったのであろう。

 

         ※ これは、何も 敗戦後の日本の「 自虐史観 」というふうなものではない。

           唐の時代の道綽が 

           南朝・梁の武帝が礼拝した北朝の曇鸞の文を引いて述べたことである。

 

 

    こういう在縁の読み方は、

   浄土教の、特に戦前・戦中に活躍した先輩たちになかったものである。

   彼らは、深い信心を獲ていつつも、これを こう読まなかった。

 

   それほどに、特に 親鸞が与り知らぬ浄土真宗の 「真俗二諦」の教義は、

   明治の王政復古以来 深く 彼らに刻印されていたのだが、

   これは、その信心が ナショナリズムの上にのっていて、

 

   「 普く もろもろの衆生とともに安楽国に往生せん 」という所になかったということを、

   仏智によっても照らし出されていなかったということなのである。

   このことを、念仏者は 率直に認めておいた方がよいだろう。

 

                                       合掌