明治維新以来、西方十万億土のかなたにまします 阿弥陀仏を礼拝する浄土教は、

国の内外から責め立てられて 分が悪い。

 

 国内からは、王政復古・廃仏毀釈とて よくも悪しくも この国に深く根付いていた仏教を

滅ぼそうとして、結局 葬式仏教・観光仏教・現世利益仏教として その残存を許されることになった。

 また、国の外からは、もちろん 文明開化とて、西欧近代の思想によって、

浄土教は、特に仏教の中でも、荒唐無稽のものを礼拝する愚か者の宗教ということになった。

 

 江戸時代に 寺檀制度によってぬくぬくと守られてきた 浄土教の徒は、

すでに 戦国末から江戸初期にかけて、世界創造神・唯一神を唱えるキリスト教に出会っているが、

当時、彼らは 厭離穢土・欣求浄土の筵旗を立てるなど、政治的には活発だったが、

異文化に接して 自己の思想の根本を問い直すという作業を怠った。

 

 思想の硬直性と独善性 及び その権威主義は、西欧との二度目の出会いにおいても、

なお 今日まで変わることはない。

結果、浄土教、特に 今日 浄土真宗と称するものは、他の仏教諸派と同じく、

「 長い物には巻かれろ 」と、西欧思想に 無抵抗に 白旗を上げることで、

自らの独善性 と 権威主義を、世俗において生き延びさせようとしてきた。

 

 たとえば、西方十万億土の阿弥陀仏というものに対する姿勢である。

ある念仏者が言っている。

 

   しかし 今では 地球が自転しながら 太陽の周りを回っているという事ぐらい

 小学生でも知っている。そんな時代に 「西方浄土」に こだわるのはいかがなものか と思う。

 

――― と。 

これは、今日の大抵の仏教徒、とくに 浄土真宗の徒が懐いている見解だろうと思う。

 

 

 これについては、さまざまな問題があって 掘り下げて考えていくべきだが、

今は 一応、二つの点を指摘しておきたい。

 

 まず、わが国の仏教徒一般のことがだ、

   しかし 今では  ・・・ という事ぐらい小学生でも知っている。

  そんな時代に 「西方浄土」に こだわるのはいかがなものかと思う。

――― という 時代や権力への迎合に無抵抗な 思想の動き方である。

 

 たとえ、それが 自らの思想信条にとって 重要なものであっても、

  そんな時代に ・・・ こだわるのはいかがなものか  

というのである。 

これは、「 真俗二諦 」の問題とも関連しており、もっと深い議論を要する。 

 

 

 では、この 「西方浄土」に こだわるべき、

つまり これを捨ててはならぬ理由を述べるまえに、

この念仏者の言葉における 今ひとつの問題を指摘しておく。

 

 まず、 

  今では 地球が自転しながら 太陽の周りを回っているという事ぐらい小学生でも知っている。

という言葉であるが、

 「 地球が自転しながら太陽の周りを回っている 」のは 本当か? という問題である。

 

 仏教では、その言葉や見解、行動の主体は 誰かor何か? 

――― ということを大事にする。

 

 では、この言葉は 誰が語っているのか? である。

 地球が自転しつつ 太陽の周りを公転しているのを見ることができる所は どこだろうか?

この言葉を語っている者は、そういう所にいて、この言葉を発しているのである。

 

 この所は、もちろん 地球上ではない。 

地球上では すべての日月星辰は 東から出て西に沈むのである。

 

 では、どこか? そして、誰が これを見ているのか?

この所は、宇宙空間であろう。 しかし、宇宙空間には 人間は生きておられない。

すると、どうなるのか? 誰が この言葉を発しているのか?

――― それは 人間ならざるモノであろう。

近代人は これを否定するかもしれないが、これは 「神となった人間」の視点or言葉なのだ。

 

 近代西欧の思想は、みな このような構造をもっている。

人間の思想ではないのである。 つまり、人間を救う思想ではないのだ!

 こうした 近代西欧への根本的な批判は、仏教徒しかできない。

にもかかわらず、今日の仏教徒は 西欧の思想に巻かれて 無条件に崇拝し、 

本来 発揮すべき批判精神を、自ら ごみ溜めに棄てているのである。

 

 

 では、次に 「西方浄土」は なぜ大事に扱うべきか? 

ということを述べたいと思うが、

 

 今、私の頭の中には さまざまな問題意識が渦巻いていて、

どうにも 自ら処理しきれず、文章にまとめることができない。 

 

 ただ、上に指摘した 西欧思想の問題点を 虚心に聞いていただいた方は、

件の念仏者の言葉が 再考を要すること、したがって、

「 西方浄土に こだわる 」ことは、むげに否定できないこと、

否 むしろ 浄土教にとって 大事にせねばならないかもしれないものなのではないか

ということは理解いただけたのではないだろうか?

 

   ※ 道綽禅師の「安楽集」は、

     まさに この問題を さまざまな観点から思惟した書物である。

     法然は、その普遍主義のゆえに 道綽を重視しなかったが、

     親鸞は、ただしく 道綽の業績を救っているのである。

 

                                    合掌