英首相の「降伏」演説 集団免疫にたよる 英国コロナウイルス政策

小野昌弘  | イギリス在住の免疫学者・医師

 

   英国のボリス・ジョンソン首相が、対コロナウイルス政策の転換について、国民に演説を行った。

            2020年03月14日  在エディンバラ日本国総領事館

この演説は ジョンソンが 「 感染が広がるにつれ、実に多くの家族が身内・親友を失う 」という誰にでも

わかる強い言葉が、英政府の基本方針が 国民の多数がコロナウイルスにかかることで 「集団免疫」を

つけることを流行収束の目標とすることが明らかになり、英国内に大きな衝撃を与えている。

   政府の方針が 人口の60%の感染で流行が収束する見通しであることから、テレビのニュースは、全英

の人口5%にあたる200万人が感染により重体となり、0.7%にあたる 27万人が死亡する予測を伝えた。

この衝撃的な数字は、英国内に確実にパニックを引き起こしている。

  まず明確にしたいが、感染症疫学の問題は 非常に専門性が高いので、これに関して免疫学者である私

には何も言うべき事はない。  しかしながら、「集団免疫」について かなりの誤解が広まっていること、本問題

が いくつもの分野にまたがり 誰にも 全貌が見えない状態に陥っていること、また 英国の状況の理解が

断片的になっていることに気がついた。 さらに、英国の経験を 日本の社会のひとたちが的確に理解する

ことは 今後 大変重要になると思われることから、この記事を書くこととした。

 

誰にも免疫がない感染症が 爆発的に流行することについて

  ジョンソン首相は 左右に主席医務官と主席科学アドバイザー(注1)を率いて 演説を行った。これは首相・

内閣が 医師・科学者から 良質なアドバイスを受けていることを象徴的に示す。だからこそであるが、

ジョンソン首相の今回の新型コロナウイルス流行の基本理解は 実に的確である。

  ジョンソンは 「 コロナウイルスは 全世界に広がり、英国内にも 今後数カ月のあいだ広がり続ける 」と

世界的流行(パンデミック)に至っている事実を確認し、問題が 数週間で終わるものではないこと、すなわち

英国にも 相当な影響がでることを明確にした。

   さらに、ジョンソンは 新型コロナウイルスは 「 季節性インフルエンザに比べる人もいるけれど、それは

正しくない。(社会の誰にも)免疫がないのだから、この病気は もっと危険だ 」とする。これは 実のところ

的確簡潔に コロナウイルス問題の本質を説明している。

 

   コロナウイルス感染の致死率が よく話題になっている。実のところ、推定に多少の差があれ、致死率の

数字が問題の中心ではない。重要なのは、季節性インフルエンザよりも 致死率が高く、かつ伝染性が

非常に高いコロナウイルスが、そのウイルスに対する有効な免疫を誰も持っていない人類集団に 次々と

襲い掛かり、感染が 社会のなかで急速に広がることが 問題なのである。別の言葉でいえば、コロナウイルス感染

は インフルエンザとは 社会における感染の時間動態が違い、ごく短い時間のあいだに 社会の多くの人が

感染し、その一部が重症化することが問題の中心である。

 

   ここで 免疫の意味を明確にしなければならない。ある感染症に 免疫とは どういうことかというと、

その感染症に一度かかったか、あるいは(ワクチンが存在する場合には)ワクチンを打ったことのおかげで、

同じウイルスが体の中に入ってきても、ウイルスが増殖し 症状がきつくなる前に 病原体を排除できること

である。 ウイルスのほうからみると、相手の人間に、そのウイルス に対して 免疫がある場合には、その人間

を利用して増殖することができないのである。

   ウイルスに対する免疫は、リンパ球などの白血球を中心とした免疫系の細胞のはたらきで成り立っている。

逆に 免疫がないと、初めて出会う病原体に対して、体内の免疫細胞は どのように対応したらよいかを まだ

定めるのに 時間がかかってしまうため、この遅れの間に 病原体が体内で増殖し、様々な病態を引起こして

しまう。ウイルスからみると、免疫のない人間は 理想的な培養器になってくれるということである。

 

開戦演説ーあるいは「降伏」演説

   さて、ジョンソン首相の演説に戻ろう。彼は コロナウイルスの脅威を明確にした そのすぐあとに、神妙で

毅然とした表情で言う。

  「 これから感染が広がるにつれ、みなさん、国民のみなさんに正直に伝えねばならない、これから 実に

多くの家族が 身内・親友を失うことになるのです

こうして 国民の深刻な犠牲を予告したうえで、ジョンソンは 政策の基本方針を述べる。これは、英国内での

流行を封じ込める段階から、流行の拡大を遅らせ、流行の時間を引き延ばすことで、病院(NHS)への負荷

を減らしていく時期に入ったことを告げる。

  ジョンソンは続ける。 「 主席医務官が (複数の)防衛手段(lines of defence)を実行していく。我々は それら

の防衛効果を 最大にすべく、これらを適切な時に 防衛手段を展開する (deploy)(2)

 

  こうして 軍事にたとえた作戦計画を示し、ジョンソンは 具体的な基本方針を伝える。主な点は 次の3つだ。

 1) 新たに発症した持続する咳や発熱がある場合は、7日間自宅隔離。 病院に行くな。

 2) スポーツ試合のような公的イベントの禁止は 考慮中だが、流行拡大を防ぐ効果は ほとんどない

 という科学者からのアドバイスをうけている。学校も まだ今は閉鎖しない。これらのいずれも 科学的見地

 から適切な時期を検討する。

 3) 高齢者を守る必要があり、多くのひとを動員しなければならなくなるが、高齢者を助けるために政府

 ができることをすべてする。

 着目すべき点は、7日間の自宅隔離以外には、具体的な策は まだ何も提示されていないことである。

 

集団免疫

  集団免疫の用語は ジョンソンの演説の中にはでてこないが、主席科学官のサー・パトリック・バレスが

この方針作成を主導したといわれている。バレスは BBCラジオにおいて、集団免疫の効能を説明している。

  彼によれば、コロナウイルスに罹ったひとの大多数は ごく軽微な症状しか おこさないが、免疫は成立する

ため、ウイルスのひとからひとへの伝染が減少する。そして、感染に弱い人たち (老人やある種の持病を

もつひとたち)を守ることができるという。

  すなわち コロナウイルスにかかっても 普通の風邪の程度ですむひとたちが 圧倒的多数なのだから、

そのひとたちが増えれば 自然と流行はおさまり、かつ 感染して免疫をもっているひとたちが 盾になって

弱者を守ってくれるという理論である。 理論上、人口の60%程度が免疫をもつようになれば、流行は収束

すると考えられている。(3)

  主席科学官バレスがこのように主張する根拠は、長期的には 集団免疫が成立するまでは、過大な努力を

して 一旦流行をおさえこんでも、どこかの時点で 再び流行が再燃することが予想されることである。

 

集団免疫方針への批判

  現在の政府の理論では、市中で感染がひろがって 比較的若い健康なひとたちが感染し 免疫を成立させ

ているあいだに、高齢者や持病を持つ弱者を隔離・保護して、流行が収まったときに 彼らに社会に復帰して

もらうというデザインになっている。

  しかし、政府の方針は 制御が困難になり 犠牲が大きくなる恐れも大きい。 ごく普通に考えても、集団免疫

の成立に頼る 現在の英政府の方針は、積極的な介入をあきらめるに等しくなるわけであるから 最後の手段

であり、流行の封じ込めで できるかぎり時間をかせぎつつ、ウイルスの病態を理解し、社会的な方策を準備

し、治療法やワクチンの完成を待つべきだ と考えるのが 多くの専門家の考え方だろう

 

  また、現在のところ 新型コロナウイルスに対する免疫が どのように成立し維持されるのかは不明である

故、この集団免疫理論は 慎重に考慮される必要がある。 実際、この集団免疫理論に対して、英国免疫学会

は、公開質問状を政府に提出している。

 1) 集団免疫が成立するまでの間、弱者を社会的隔離など何らかの方法で守らないと甚大な被害になる。

  2)  新型コロナウイルスには まだわからないことが多く、長期的な免疫が成立するかどうかは まだ不明

  である。

 

  ここで さらに 筆者の見解をいうならば、これらの免疫学的調査のためには、コロナウイルスに対する抗体検査

の樹立が まず重要である。有効な抗体検査ができれば、どのひとに 免疫が成立したかがわかるようになり、

その免疫は 長期に維持されるのか、多少ちがうDNA配列に変化した ウイルス に対しても有効な免疫なのか、

など 重要な知見がえられるようになる。 蛇足ながら、PCR検査は この役には立たない。

 

  また、英政府が 積極的な封鎖に消極的な理由として、あまり早くに 社会生活を制限する施策をしてしまう

と 「社会疲労」をおこし、長続きしなくなる という 行動科学の理論が持ち出されている。

この根拠が薄弱であると考える 200人の英国の心理学・社会学者が 政府のもつエビデンスを開示するよう

公開質問状を政府に提出している。

 

   一方で、コロナウイルスの治療法やワクチン開発が うまくいく保証はないし、少なくとも 今年中の完成は

困難である と考えられている。 また、欧州・米国でみられる 感染者数の爆発的な増加は、そもそも政策的な

余地を すでに大きく制限しているかもしれない。

  もしかすると、英国政府のもつ調査データ  および 数理モデルからは、政治的・社会的な介入で 流行を

食い止めることを、少なくとも 英国は諦めるよりほかない状況なのかもしれない。それならば その根拠となる

それらの証拠(エビデンス)を開示すべきだが、現在のところ 英政府は まだ応じていない。

 

  ジョンソン首相の演説の締めくくりは「 ...今 辛くとも、過去に厳しい経験を克服してきたこの国は この流行を

克服する ..」 で終わる。

ジョンソン首相は、独軍の大空襲を受け 被害をだしつつも 「Blitz spirit(’空襲’精神)」で耐え乗り切った

ように、コロナウイルスも 被害を甘受し乗り切ろう と言いたいのであろう。しかし 懸念されるのは 具体策が

どこまで存在するか、である。それがないならば、せっかくの意気込みで用意した開戦演説も、今後の経過

とともに 歴史的な降伏演説として 人々に記憶されることになろう。

 

 注釈

  1)主席医務官は医療問題に関する政府アドバイザーの中で最高官職、公衆衛生を専門とする医師である。

  2)この文などにみられるようにジョンソンは演説の抽象的な部分の説明には軍事を暗示する用語を使っているところは

   注目すべきだろう(ほかにもmobiliseなど)。つまり、この演説は、まるで 第二次大戦参戦 あるいはナチスドイツ軍による

      空襲を迎えるかのように書かれている。おそらくは、ジョンソンが尊敬するチャーチルの業績と演説を意識しているのだろう。

    3)集団免疫(herd immunity)の原理を理解するのにわかりやすいシミュレーションのリンクを貼っておく。リンクの画面で、

      Percent vaccinated(ワクチン接種率)を 既感染者率におきかえて考えるとよい。図にある数字は条件によって変わるので

      あまり拘泥する必要はない。大事なポイントは、既感染者が ある程度以上多くなると、流行は広がらなくなる

 

 

  2020 3.14現在

   イギリスは 3万7746人が新型ウイルスの検査を受け、1140人の感染が確認された。

  感染者のほとんどはイングランド。他にスコットランド 121人、ウェールズ 60人、北アイルランド 34人。

  ただし 国内では、軽い症状が出て自主隔離している人たちの検査を中止している。
  英政府は13日、イギリス全土の実際の感染者数は 5000~1万人だろうと推測している。
   死者は、21人。     
   / イギリスの人口: 6602万人 (2017)