自らの共同体が 困難な事態に遭遇しているとき、

多くの場合、我々は

“ 誰かが これを解決するだろう ” or “ どうにかなるだろう ” と、

この困難を 自らに荷負しようとする者は、極めて希である。

さまざまに 自己を正当化して、

運命に or 他者に その問題を転嫁する(負わせる)のである。

 

結局、誰も その問題を担わず、

ババ抜きで それを負う(その犠牲になる)者を決める。

否、自らの意思で これを決めることすらできず、

犠牲者が出るのを、

じっと 息を潜めて待つのである。

己が旨い汁を吸うために、その人身御供を求めるのだ。

 

         人間我らの この構造が、すなわち 

         今日 毎年約4000人余(30日以内)の死者を出す自動車社会として、

         我々の前に すでに具現化していたのである。

         交通事故死は ふつう、「あるのが当り前」で、

         この社会が抱えている「困難な問題」としては 認識されていない。

         ここに 現代社会の深刻な病がある。

 

これを、「極重悪人」というのであろう。

これは 自利利他の「菩薩」とは 反対語である。

善人面した この者たち・・・。

なむあみだぶつ

 

 

何か組織のトップの倫理的な腐敗or崩壊という事態に対して、

昔から どこでも、人類は さまざまな苦労をしてきた。

孔子がそうだったし、ソクラテスもそうだった。

釈迦もそうだったし、イエスもまたそうだった。

 

このトップの倫理的腐敗と悪逆に対して、

物理的な力をもって これを除こうとすることも、歴史の上で 度々あったが、

もし、力をもって これを排除した場合、それを為した者たちも また、

返り血を浴びて、倫理的な疵を 深く負うのがふつうであった。

 

ある者に 権力を持たせると、

やがて その上に起こる倫理的な腐敗に対して、

人は 責任を取らねばならない。

 

この世では、人に良心を期待することはあっても、

大抵は その期待は裏切られるものである。

なぜなら、この“人”は 無明煩悩の凡夫だからである。

 

“正義のために これを排除する!” と。

しかし、もし、それが成功すれば、その者は悪鬼となるだろう。

むしろ、それが失敗して 抹殺されると、

その者は 英雄or聖者となるだろう。

 

――― 実に、人間存在のパラドックスである。

 憍慢・弊・懈怠 難以信此法

      憍慢と弊と懈怠は、もって この法を信じがたし (大無量寿経

しかし、このパラドックスを乗り越える道がある

――― というのが仏法であった。

 

                              合掌