人は死んでどうなるか? どこへ行くか?

 

 今日、大学で高度な教育を受けた人も、

 人の死に際して 言うにこと欠いて、

 “天国に行った” と ついつい言ってしまう。

 天国など信じてもいないにもかかわらず・・・。

 

      彼らの多くは、葬式・法事は 仏式でやるのに、

      どうしたわけか、その時のことを忘れたのか、

      「天国」とは言うが、「浄土」とは言わない。

      実に、奇妙である!

 

 これが、仏教の僧侶だと 自らの死者供養の商売にかかわることなので、

 “人は死んで、7日ごとに 生前の生きざまを 十王に審理され、

 次の生を決められて 六道の内を転生していく・・・。” と言いたいのだが、

 遺族はもちろん、僧侶自らも こんなことは信じていない。

 

       日本仏教は、この「六道のいずれかへの転生」にガマンできず、

       たいていは、49日や1周忌や3回忌が終わると、

       どんな者も 弥陀の浄土に往生し、やがて 仏になるという 

       ほんとかどうか自らも分からぬ 夢幻の世界に住んでいる・・・。

 

 敬虔なキリスト教徒だと、人は死んで 地の中に眠り、

 最後の審判のとき、生身のまま 神の前に生き返り、

 生前の行為によって、天国に召されるか 地獄に堕ちるか決まる・・・。

 と信じているはずである。

 

 

 ところで、近代公教育では、“あらゆることを問え” とは教えられるが、

 “死後 人はどうなるか?” という問いは 

 問うてはならないことになっている。

 つまり、近代は この問いを封ずることによって成り立っているのである。

 

 また、日本人の死に対する ふつうの考え方は、

 死者儀礼たる法事における 「十王信仰」or「十三仏信仰」といった形での

 インド伝来の「六道輪廻」を信じているがごとくでいて、実は まったく信じていず、

 わずかに“祖霊の住む「あの世(異界)」”に行く といった淡い思いで済ませている。

 

 

 このように、今日の我々の、 

 時々 ふと不安になって問う

 “死んだら どこへ行くのか? ”というこの問いは、

 逆に、自らの死に対する思惟の不真面目さを示しているのである。

 

 しかし、わが国は 1500年におよぶ仏教の歴史があり、

 仏法は 「生死の一大事」と言われてきたように、

 死に対する思惟を 深めてきたはずであった。

 ところが、今日の我々の死後観は 上のように奇妙なことになっている。

 

 どうして、こういう変なことになってしまっているのか?

 私は、その原因が 明治維新の文明開化で、

 “死んだら 人は どうなるのか?”

 という問いを封じた西欧近代の理念にあると思っていたが、

 

 実は、 わが国の死者供養を荷っている仏教そのものに、

 もっと言うと、我々日本人の深層心理のなかに、

 死を曖昧なものにする原因があるのではないか?

 と考えるようになった。

 

 

 その もっとも端的な現われは、

 仏教本来の死後観が、日本仏教から抹消されていることに見られる。

 仏教の経論釈には、そのあらゆる所に、六道輪廻の思想を見出すが、

 たいていの日本の仏教徒は これを 単なる比喩orよくできた物語と見る。

 

 仏教の経論釈の前提には、「この世(三界)」における六道輪廻があるが、

 日本人仏教徒は、この世で この生まれ変わり死に変わるという死生観を認めず、

 人は死ぬと 、地獄であれ 祖霊の地であれ 浄土であれ、

 いずれにしても 「あの世(異界)」に行くとするのである。

 

         ※               六道                  

                                                                      天      

              地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間 /六欲天色界・無色界

                                                          欲界                          |

                                        |                           |

                                                              三界

              日本仏教は、三界(=六道)のなかの「人間」以外を「この世」ではなく、

             「異界」としているのである。 

             しかし、本来 仏教では、これらは みな「この世」のこと。

              例えば、「三界の火宅」というのは、「この世」のことである。

             六道輪廻とは、林家に生まれ、次の生で 金田家にうまれ、次に 中国人として生まれ、

             次に ケニア人に生まれ、次に 牛に生まれ、次に 豚に生まれ、次に 犬に生まれ、

             次に カマキリに生まれ、・・・・ etc.と この世に生まれ変わり死に変わるのである。

 

 異界に行くとなれば、

 仏教の根本である「因縁」を断絶することになるわけだが、

 実に驚くべきことに、すぐれた 日本の仏教者といえども、

 そこに 何の矛盾も感じないのである。

 

     

 仏教が、この世における生まれ変わり死に変わる「輪廻」を前提としているのは、

 それが 因縁業果報と、

 仏教の世界観たる「因縁観」の必然的帰結だからである。

 そして、仏教の旗幟は、まさに この「輪廻からの解脱」だったはずなのである!

 

 「輪廻」を認めなければ、

 当然に 「輪廻からの解脱」も 意味がなくなる。

 つまり、仏教の存在理由もなくなるのである。

 ところが、わが国の僧は 輪廻を認めないのに 仏教徒なのである。

 

 オカシクはないか? どこかに ごまかしがあるのだ。

 まさに このごまかしの上に、日本仏教は成り立っているのである。

 このごまかしの系の一つとして、

 日本の仏教徒は、「無私」と「無我」の区別がつかない・・・。

 

 この「無私」と「無我」の同一視こそが、

 日本仏教の特徴であろう。

 無私の「私」の反対は、「公」。つまり 天皇である。

 無我の「我」の反対は、「空」である。つまり 如である。

 

 

 ―――― 今回は、一応 ここまでにする。

                            合掌