ユートピアや桃源郷を夢み、あるいは そこに行こうとするのは、

この世に生まれた この身をもってのことである。

 

  自分は、この世のここに生まれたのだが、

  しかし、ここは良くないところ・本来あるべきでないところである。

  せっかく この世に生まれた自分は、

  もっと良いところ・本来あるべきところに いるべきなのだ。

 

  ――― という思いが、

  桃源郷やユートピアを求める根っ子にあるのであろう。

 

  また、

  これが、アメリカ独立戦争やフランス革命、ロシア革命など、

  近代西欧の基本的な発想であったであろう。

 

 

しかし、これらは、

この世に生まれたことを、まったく問題視していない。

 

この世に生まれたのは 自明の前提であって、

つまり 自分が この世に生まれたことが問題なのではなく、

この自分がいる環境が問題なのだ というのである。

 

この世の、自分がいる境遇・環境が問題であり、

これを どうにかすべきだとは思っても、

自分が この世にあることが問題とは、少しも思わないのである。

 

この世に生まれたことは肯定しながら、

今の境遇を、本来あるべきものではない、間違ったものとする・・・。

これが、ユートピアや桃源郷を求める発想であろう。

 

 

しかし、

こうした考え方とは 違う考え方をする者がいる。

 

今の境遇・環境を、本来あるべきではない 間違ったものとして、

この世に生まれたこと自体を問題とし、否定する・・・。

つまり、自分が生まれてきた この世の全体を否定するのである。

 

ここに、 

この身をもって (この世の)別の世界に行くこと望むのではなく、

この身を捨てて、別の世界(浄土)に生まれることを願うのである。

 

     ※ 後者は、一見 「自殺」と同じようだが、しかし、まったく別ものである。

       「自殺」は、この世全体を否定するのではなく、 自分の身を否定するだけである。

       後者は、“今 自分が生まれている この世”全体を否定して 浄土に生まれるのである。

       これが 厭離穢土 欣求浄土である。 願生浄土である。

 

 

     ※ 我々日本人の多くは 死者を弔うとき、葬儀で ナムアミダブツと唱えるが、

       その“南無阿弥陀仏”の阿弥陀仏は、安楽浄土にまします仏である。

       これは 阿弥陀仏の大悲によって、死後 安楽浄土に往生することを想定しているのである。

 

       ところが、最近 仏式で葬儀をしても 死者が「天国に行った」と言う者が目立つようになった。

       仏教で 「天」と言えば、迷いの世界であるが、

       これは 恐らく キリスト教の「天(神の国)」のつもりなのであろう。

 

       どうして このような混乱が生じているのかと言えば、

       これは キリスト教が伝えられる以前の 日本仏教に原因があるだろう。

       つまり、人は死んだらどうなるか? ということについて、

       日本の土俗的な観念 と 仏教の死生観との違いを、

       仏教側が 曖昧にしてきたことに原因があるだろう。

 

       仏教は、すべて “ 「この世における」 生れ変わり死に変わる 六道輪廻”を前提にしているが、

       わが国の土俗信仰では 人は死んだらこの世から去って 「異界」に行くのである。

       つまり、死ねば 我々は 「行ったきり」 になるのだ。

 

       したがって、日本人は 死後にいく処として、 

       「この世」 と 「異界」との 全く違う2つの世界を教えられたのであるが、

       日本の僧侶らは、中国から死者供養(インド仏教ではなく中国化した仏教)を舶来し、

       さらに この2つの死後観を 強引に貼り付けたのであった。

 

       つまり、日本人僧侶は、

       仏教の前提である 生れ変り死に変わる 「この世における六道輪廻」 を捨てて、

       土俗信仰の死後の 「異界」観の中に 中国伝来の追福仏教をはめ込んだために、

       仏典に語られていることが ピンと来なくなり、仏教を曲解せざるをえなくなったのである。

 

                                  合掌