四六時中、 私は さまざまなものを 思い念ずる。

あれを思い、これを念ずる。 

これを思い、あれを念ずる。

 

その時々で、その場その場で、

思い念ずるものは さまざまなのだ。

 

そうしたなかで、

阿弥陀仏を念ずるということは、

私には 未だかって一度もないのだ。

 

そもそも、

仏を念ずるということは、

 

何か それらしい影を ほんの少し見るだけで、

たちまち雑縁のなかに呑み込まれてしまうのが、

私である。

 

それゆえ、経論では、

 

観想念仏ではなく、

「専念弥陀名号(弥陀の名号を専念する)」と 口称(クショウ)の念仏を勧めて、

これを本願の行(ギョウ)としている。

 

如来を見ることはできないが、

“ 如来まします ” と思うのと、思わないのとでは、

生活態度がまったく違ったものになる。

                                                ※ 如来 = 仏

善導大師曰く、

 

口に常に仏を称すれば、 仏 即ち これを聞きたまう。

身に常に仏を礼敬すれば、仏 即ち これを見たまう。

心に常に仏を念ずれば、仏 即ち これを知りたまう。

衆生 仏を憶念すれば、仏 、また衆生を憶念したまう。

 

と。 つまり、

聞いたり、見たり、知ったり、念じたりするのは、

私ではなく、仏なのである。

 

私が、仏を 聞いたり、見たり、知ったり、念じたりするのではなく、

仏が、私を 聞き、見、知り、念ずるのである。

 

                           合掌

 

   ※ 今日一般の人には、 「仏」と言っても すぐにはピンとこないのがふつうでしょう。

     それ故、「仏とは何か?」ということについての感興を 日記から引用してみます。

 

   上があり 下があるのがこの世である。

   上もなく 下もない社会or世界というのは、

   我々人間においては あり得ないことである。

 

   下とは 欲界・三悪道。          ※ 三界 - Wikipedia

   我々は 重力場にあって、下に落ちていくのが自然である。

 

   上とは 色界・無色界、いわゆる「天」。

   上には上がある世界である。

 

   上下の差別がなくては、

   万事 成り立たない世界が、この世(我々の世界)である。

 

   上を尊び、下を卑しむ。上は威張り、下は隷従する。

   これを「三界」という。

 

 

   しかるに、

   釈迦は生まれて七歩

 

   「天唯我独尊」

   大無量寿経の表現では、「吾れ、世において無上尊となるべし」

 

   と言ったという。

   「無上尊」とは、 上のない者。

   これが 「仏」である。

 

   万事につけ、上下のある この相対の世界において、

   それより上がない。   

   その者より上には、何ものも存在しない。

 

   上がなければ、

   もちろん、万事 相対の この世界(三界)においては、

   下もないのだ。

 

   上下のある世界、つまり 三界は、

   「三界は 安きことなし、なおし 火宅のごとし(三界無安、猶如火宅)」

   と法華経は記している。

 

                      合掌

     ※ かえって、訳が分からなくしてしまったかもしれない。

       申し訳ありません。