自勧勧他 楽聞正法 (自ら勧め 他を勧めて 正法を聞くことを楽(ねが)わしむ)
――― 道綽『安楽集』第四大門
ということは、 実に
人間存在をして 人間存在たらしめる根本のものであろう。
たとえ、念仏を どれほど申しても、
このことがなければ、
念仏は 単なる呪文となって 全く意味を失うであろう。
※ 「楽聞正法」の、この「正法」とは 弥陀の誓願のこと。 つまり 念仏のこと。
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自勧勧他 楽聞正法 といっても、
我々は ほとんどの場合、
自分流に 法を聞いて、それを正法となし、
これを 自勧勧他するのである。
およそ 信心というものは、
それが、浅深・広狭 どんなに偏向していても、
人をして 魅惑せしめ、信用せしめる力がある。
真に 正法を正法とする能力が、
我々には欠落しているために、
それを 信じ 受け入れた結果の災厄を見て、
その信じたことを後悔して、非としたり、
※ つまり、それが正法ではなかったから、 それを非とするのではなく、
それが災厄をもたらしたから、 それを非とするのである。
あるいは、
もし、それを 信じ 受け入れた結果の災厄を見ても、
懲りることなく、それを非とせず、なお それを是とする・・・。
※ 科学技術崇拝は、核兵器による人類絶滅の淵を見、あるいは 福島第一原発事故による
日本国崩壊の瀬戸際を経験してもなお、原子力(原子核物理)に頼ろうとするのだ。
誰がか? 長年の仏法者・聞法者が・・・。
――― こうしたことも、我々には よくある話である。
つまり、我々人間は、
正法を 正法とする力、 法の正邪を判断する力、
法を正しく聞く力 etc.
といったものに、生来 欠けているのである。
これを 貪瞋痴・三毒煩悩の凡夫というのであろう。
※ ここに、「我々人間」とは、仏教に縁のなかった人々だけのことではなく、
まさに 仏法者・聞法者のことなのである。
合掌