自らを 生・老・病・死の苦の当事者とし、

自らを 無明煩悩の凡夫とすることなくして、

どこにも 仏法はない。

 

この世の苦(四苦・八苦)を、政治や社会制度で助けようというのが、

山本太郎氏の「れいわ新選組」の運動であろう。

これは、今日 他に期待できないような 極めて良質な運動である。

 

この運動を 行けるところまでやってみるのは、

よい選択であろうと思われる。

いわゆる、「自力を尽くす」のである。

 

    此方は、多時に具(つぶ)さに 施・戒・忍・進・定・慧 *を修し、

    未だ 一万劫を満てざる以来は、恒に 未だ 火宅を免れず。

    顛倒・墜堕す。故に 功を用いること 至りて重く、報を獲ることは偽なり。

                                           ―――― 安楽集(道綽) 第七大門

              * 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜(六度)のこと

   ということ、つまり 

   この世は 火宅であり、 ここに 何であれ何か結果を期待することは、

   すべて間違っている(顛倒している)。

 

   ――― ということを、我々が 骨身にしみて自覚するまで・・・。

  

     ※ 自ら自力を尽くさずして、

        「それは他力じゃない、自力だ」と 高みの見物をする念仏者が沢山いるが、

       これが、いわゆる 「五百歳三宝を見ず」といわれる疑城胎宮なのであろう。

 

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“ 私が生きていてよいか どうか? ”

――― ということを判断するのは、自分でも 他人でも 社会でもない。

 

恐らく、私や人や社会が考えられる最後の所では、

“あなたは生きていてよいのだ” と言える者は 誰もいないのだ。

 

“私は生きていてよいかどうか?”ということを判断する能力は、

我々人間にないのではないか?

 

 

“なぜ、私は生きているのか?” という問いに、

どこかで聞いたことがあるような答えではなく、

心の底から まともに答えることができる者は、恐らく 一人もいないだろう。

 

“私は、この問いに対する答えをもっていない”

というのが、我々の正直な所ではないだろうか?

 

したがって、この問いに対する答えは、自分に持ち合わせがないため、

これを他から教えてもらわなくてはならない というのが、我々人間であろう。

 

そこに、時代時代の思潮というものがあり、

また 西欧思想・インド思想・中国思想etc.というものがあるのだろう。

 

つまり、時と場所によって、我々の“生きる意味(意義)”が違うのだ。

仏法は、これを 「外邪異見の難」と言った。

 

世の常識や思潮は、仏法においては、

外道であり、邪道なのだ。

 

ここに、釈迦誕生して 7歩、

天上天下唯我独尊*と言った意味があるのであろう。

      * 独尊――― ①我独りを尊ぶ  ②我独りが 何であれそれを尊ぶ

         ① 親が 天皇が 誰か他人がor国家が 科学が 伝統が、私より尊いのではない。 

        あるいは、仏の前における私の判断を、それらの言うことよりも尊ぶ。

          私の主体性or責任を放棄しない意。 

        ② この世で尊いものは、それを他人の物(責任)にせず、まさに私が尊ぶのである。

 

 

                                       合掌

 

 

 

     2019 8.1  山本太郎街頭記者会見

     https://ameblo.jp/kyomutekisonzairon/entry-12500518294.html