「それは、自分のエゴでしかないから」
2018年2月14日の今日、Restaurant Andreは8年の歴史に幕を下ろします。仕事を含め、何度もお邪魔したレストラン。
最後のサービスの前に、個人的に挨拶に行ってきました。
去年10月10日に、アンドレシェフが閉店を発表した時、多くの人が「なぜ?」と驚きました。アジアのベストレストランで2位、ミシュラン二つ星。アンドレ自身も、「このまま行けばアジア1位も、三つ星も狙えるのに」という閉店を惜しむ声を聞いたのだとか。
「でも、一位になることも、三つ星も、結局は自分のエゴでしかない。もっと、アジアの食のシーンをよくしていくための教育に、自分の経験と知識、力を使いたい」。
「それでも、もう少し待てばよかったのに」と同じ質問を投げかけると、「自分のできる完璧をやりきったから」という返事が返ってきました。
その緻密な仕事、完璧さに対するこだわりは、レストランの端々に、そして2年前に出版された本で、365日のクリエイションを全て収録したOctaphilosophy にも感じられます。
これからも引き続き、レストランアンドレグループの元にあるレストランの経営に携わっていくそうですが、レストランアンドレのオーナーシェフではなく、渡された新しい名刺には、A-Cのロゴと、www.andre-chiang.com. の文字。「アンドレ・チャン」として、個人の活動をしていく」のだそうです。
これまで、このレストランの名前も、ファーストネームの「アンドレ」だけでしたが、敢えて、先祖代々受け継ぐ姓の「チャン」をつけたところに、自らのルーツへの回帰する決意が感じられます。
肩書きは「クリエイター」シェフとして、料理を生み出すのではなく、もっと自由に料理の世界に関わっていくスタンスです。
とにかく、この先の10年は若いシェフを教えることに注力したい、と語ります。
「フランスは育ての親、台湾は生みの親」と語るアンドレ。「母国の台湾に25年以上戻っていない、自分のルーツに立ち帰りたい」という内なる声が日に日に強くなり、閉店を決めたのだとか。
「例えば、若いシェフがファインダイニングの料理を学びたい、と思った時に、なぜヨーロッパに行って他の国の料理を学ばなくてはならないのか。地域の風土で育まれた食材、歴史と料理は切り離せない関係にあるために、フランス料理ならフランスの歴史を学ぶ。でも、自らの文化を知らずに、他国の文化を学ぶのが良いことなのか。アジア人なら、自分の文化を学び、その上で自国の文化を知るのが当然ではないのか。」
今世界各地で見られる原点回帰の流れ。さらに、13歳で母国台湾を離れたアンドレシェフが、海外で長く暮らすうちに多くの人が自ずと突き当たる、「自分は何者なのか」という思いを抱くのはとても自然なこと。フランスで長い時間を過ごし、フランスのことを深く知れば知るほど、翻って、自分は自分のルーツである台湾について、何を知っているのだろうという思いに駆られたのではないかと思います。
去年11月に、中国・成都の橋を改装したコンテンポラリー四川料理の店、”The Bridge”をオープンすると発表し、2018年末をめどに、レストランアンドレの場所をそのまま使ったファインダイニングのレストランをはじめ、3つのプロジェクトが進行中とか。
2010年のオープンから、世界のベストレストランに輝いてきたRestaurant Andre。
「シンガポールでの10年間で、シンガポールに根付き、シンガポールの旗を世界に掲げてきた。そして、これからの10年間で、それよりもさらに素晴らしいものを築き上げるつもりだ」と語ります。
以前から持っていたままで、サインしてもらいそびれていた本を、これまでのアンドレで過ごした時間の締めくくりとして、今日この日の日付を入れてサインをしてもらいました。これまでありがとう、という言葉の下には、アンドレがいつも口にする言葉でもある「Creativity takes courage, and we choose to be courageous one!」「クリエイティビティには勇気が必要」という、アンリ・マティスの言葉に「我々は勇気ある者であることを選ぶ」という言葉が添えられていました。
世界の偉大な料理と同じように、日本や中国、台湾や東南アジアを束ね、新しい「アジア料理」というジャンルとして確立し、ヨーロッパからシェフが研修に来るようにして行きたいという壮大なプロジェクト。
人気の只中にあって新しい道を選んだアンドレシェフの選択、これからまたどんなニュースが飛び込んで来るのか楽しみです。
今日はバレンタインデー。それでも、店を後にする時に、エントランスまで送ってくれたアンドレシェフが口にしたのは、明後日迎える旧正月のこと。「ハッピーチャイニーズニューイヤー、Kyoko」。そうだ、これからアンドレは、アジアの世界を背負って生きていくつもりなのだ。そう改めて感じたのでした。