シンガポールに初めて、アルゼンチン料理の店ができた、という事でお邪魔したのが、去年のこと。

(地球の歩き方記事→http://tokuhain.arukikata.co.jp/singapore/2015/04/_bochinche.html)

その後レストランは移転し、今新しいお店がどんどんオープンしている美食スポット、Amoy Streetへ。

Diegoシェフ(左)と、Fabrice Mergaletヘッドシェフ
エグゼクティブシェフである、Diego Jacqetシェフは、あのEl Bulli(エル・ブジ)でも修業し、ヨーロッパの星付きダイニングで腕を磨いてきたキャリアの持ち主。きっと、今流行のスペイン料理や、一般的ななぜ敢えて、あまりなじみのない「アルゼンチン料理」のレストランを開いたのか。その思いを聞きました。

元々シェフになるのが夢だったのですか、とお聞きすると、意外な答えが。


子どもの頃はサッカー選手になることが夢だったというDiegoシェフ。足が速かったため、ポジションはウイング。しかし、14歳の時、突然の事故で左目の視力を失い、プロへの夢をあきらめます。父がJazzやブルース音楽の大ファンだったこともあり、一時は音楽の世界に進もうと思ったこともあるとか。
センスのいいアルゼンチン音楽が流れるお店でお話を聞きながら、そんな音楽の経験も今に生きているのだと感じました。
16歳で、ホテルマネジメントの学校に入学。本来はサービススタッフ希望だったものの、学校のカリキュラムの中にある料理の授業で、すっかり料理を作る魅力にとりつかれます。
プレッシャーの中、ペースをコントロールしてキッチンを統率し、組み立てる。シェフはその全体のリーダー。子供のころから、みんなをまとめて統率するキャラクターだった自分に、向いていると思った。
これが、自分のしたい仕事だ。そう感じたDiegoシェフは、当時学校でクラッシックなフレンチを教えていた、Francis Mallmanシェフに、レストランで働きたい、と訴えます。
願いがかない、無給の見習いとしてFrancisシェフのレストランで働くことになりますが、想像していたのと違い、厳しく、忍耐が必要とされる世界に、数か月でドロップアウト。
友人たちとともに、ケータリングの仕事を始めます。
「でも、今だから言えるけど、ひどかった」と笑うDiegoシェフ。「だって、料理のことは何も知らない。レシピ本片手に作ってるような状態だったからね」
結局2年間やったケータリングの仕事ではそこそこのお金は稼げたものの、
本来の夢は、父が若いころに住んでいたヨーロッパで本物のシェフになること。
それなのに、今自分はいったい何をしているのか。「もう一度勉強させてください」と頭を下げてFrancisシェフの許しを得て、元のレストランに戻ります。
今度は心を入れ替え、無給の見習いとして1年間みっちりとフレンチを勉強。
そんなDiegtoシェフに衝撃を与えたのが、19歳の時に出会った、Marco Pierre Whiteシェフの本"White Heat"。
Gordon Ramsay(ゴードン・ラムゼイ)シェフなどのスターシェフを輩出したMarcoシェフのキッチンの様子がつぶさに描かれた本で、ホテルのレストランのような、几帳面で四角四面な仕事ではなく、Marcoシェフのような、自分の情熱を料理で表現するような激しさが、自分には向いている、と感じたDiegoシェフは、たまたま知り合った著名な料理評論家を通して、華やかなモンテカルロの、Alain Ducasse率いるフレンチレストラン、Louis XVで働きたい、と申し込みます。

しかし、スペイン語が公用語のアルゼンチンで育ったDiegoシェフ、フランス語が話せず、「その状態ではずっとジャガイモの皮むきしかさせてもらえない。それならば、スペインに最近ミシュラン三つ星を取ったばかりのレストランがある」と勧められたのが、フェラン・アドリア率いる、あのEl Buli。当時最先端だった分子料理学のトップレストラン。研究のためのラボという側面も持ち、「今でこそ、分子料理学はとても一般的でなじみのあるものになった。どんな温度で、何をどうすればいいのか、一般的な知識として広まっている。だけれども、1998年当時は、それをひとつひとつ確かめていかなくてはならなかったんだ」。
しかも、三ツ星になったばかりの勢いのあるレストラン。当然希望者も殺到しており、見習いシェフたちは、本当のキッチンの裏にある下ごしらえ用のキッチンで働き、中には見習い期間をそこで終える人もいたとか。

「でも、僕はラッキーだった。見習い1日目の賄のランチで、目の前に座ったのがアルゼンチン出身のシェフで、ちょうど翌日からコールドキッチンからホットキッチンに移るところだったんだ。そこで、2日目から、本物のEl Buliのキッチンで働くことができたんだ」

フレンチの技術は身に着けていたとはいえ、もちろん、いきなり三ツ星のキッチンに立つのは厳しかった。「世の中には、最初から器用な人、というのがいるよね。だけれども、自分はそうじゃなかった。自分の持ち味は、3つある。すべてのものを組織立てて動かす力と、誰よりも熱心に働くこと、そして、物事を絶対に成し遂げるという頑固さがあること。」
最初は、コールドキッチンの中でも、メインの部分は任せてもらえなかったが、メインから外されても、必ず挑戦してくる、仕事への情熱とあきらめない姿勢が評価され、ついには、週に2日ほど、コールドキッチンの部門シェフを任されるように。

「コールドキッチンにいたから、7種類ものシフォンスポンジを作る方法や、液体を球状にまとめる方法など、いわゆるモレキュラー(分子料理学)の代表的な料理を知ることができたし、新しい食材に好奇心を持って向き合うことも学んだ。だけれども、一番大きかったのは、三ツ星の厳しい基準と仕事に向き合う姿勢かな」

その後、一緒に働いていたスウェーデン人のシェフの縁で、NYのミシュラン星付きのスカンジナビア料理店、Aquavit(アクアヴィット)へ。

任されたのは、当時あまり得意でなかったペストリー(デザート)部門。初めての英語圏での仕事は、初日にレシピ数枚を投げ渡され、「やってみな」引継ぎは、それだけ。
El Bulliのおよそ倍の席数の190席の人気レストラン、予約でいつも満杯。サービスが始まると、戦場のような忙しさになる。


↑2000年、Aquavitでの土曜のディナーサービスを終えた後のDiegoシェフ。毎日が戦争のようだった

そこで、朝8時スタートのランチの仕事に入るときは、早朝5時30分、午後3時スタートのディナーの仕事に入るときは、午前11時30分。数時間早くキッチンに入り、自分なりに工夫をこらして、いかに効率的に仕事ができるか、完璧な準備を進めた。

image

現在のレストラン、Zolio(ロンドン)のキッチンにて、素材をチェックし、メニュー構成を考える。誰よりも早くキッチンについていた習慣は、今でも染みついている

海外で働いているからこそ募る、母国への思い。「異国で働いている自分には、のんびりしている時間はない」だからこそ、一刻も無駄にできなかった。

そんな姿勢が実を結び、何と半年後には、ヘッドシェフのすぐ下のスーシェフに抜擢される。

また、素朴なパンチの効いた味付けが特徴のアルゼンチン料理、スペイン料理と違った、スカンジナビア料理との出会いも大きかった。

「軽やかでバランスの取れた味わい、特に酸味のバランスが違う、これを知ったのは大きな収穫だったと思う。」と語ります。

そして、ヘッドシェフのNils Norenとの出会い。
「キッチンに立って何をしたらいいかわからない、というシェフも見たことがあったけれども、彼は全く違う。チームをまさに引っ張っていき、すべての責任を持つ、そんなリーダーシップがあった。プロのシェフとして、人として、いろいろな意味で一番影響を受けたシェフだと思う」

のちに、友人となった2人。Diegoシェフは、ロンドンに自分の最初の店、Zolioをオープンした際に、真っ先にNilsシェフを招待し、感謝の気持ちを伝えたそう。その言葉に対して、シャイなNilsシェフは、「自分は何もやってないよ」と謙遜するだけだったとか。


そんなDiegoシェフは、実は日本が大好き、アルゼンチンの中でもパタゴニア育ちのDiegoシェフは、子どものころからスキーが大好き。シンガポールからアクセスの良い北海道のニセコには、定期的に行くのだそうで、それ以外にも日本各地を食べ歩いているのだとか。

好きな日本料理は?とお聞きすると、ニセコの蕎麦店で、NOMAに招待されてデモンストレーションをしたことでも知られる「楽一」の蕎麦や、高山のCurnontue(キュルノンチュエ)の生ハム、、東京の傳の「ご飯の上にアン肝とワサビを乗せたもの」まで、その幅広さに驚きます。

image

BochincheのFabriceヘッドシェフ(写真右)も、実は日本のヒルトン東京ベイのレストラン、Ma Maisonで2001年~2006年までスーシェフとして働いていたという事で、大の日本びいき。好きな日本の食べ物をお聞きすると、タコ焼きや焼きそばなど。どうやら、ソース系の味が好みだったそう。

さて、Diegoシェフですが、Aquavitを辞めてアルゼンチンに戻り、自らのレストランをNYにオープンしようとしていたころ、9.11が起き、NYで新しいお店をオープンするような状況ではなくなってしまいます。

そこで、スウェーデンのホテルへ。若干26歳の若さで、モダンヨーロッパ料理のレストランのヘッドシェフを務めます。そこでは、実際の現場を回して管理していくことを学んだそう。スウェーデンのベストシェフ20人に選ばれます。

さらに活躍の場をロンドンに広げ、今度はロンドンのヒルトン系のホテル、The Trafagarへ。27歳で、ヒルトンで一番若いエグゼクティブシェフとして迎え入れられます。

現場を取り仕切るヘッドシェフの仕事と違い、管理職としての立場もあるエグゼクティブシェフ。
初めて経営会議に参加し、戦略的な視野を持つことにもつながったそう。

そして、2009年、アルゼンチンに戻り、ついに自分のレストランを立ち上げる為の準備に入ります。徐々に、ラテンアメリカの食文化が注目を集めてきたころ。

「ペルー料理やブラジル料理なら、みんなある程度イメージがわくでしょう?でも、アルゼンチンは?と聞かれると、ほとんどない。せいぜい、牛肉が知られている程度。南北に細長く、山も海もあるアルゼンチンは、素晴らしい食材がある。みんなそれを知らないのはとってももったいないことだと思うんだ。これまで磨いてきた、ヨーロッパやアメリカの一流の技術を使って、そんな食材を世界に紹介したいと思って、アルゼンチン料理のレストランにすることにしたんだよ。」

まずやったことは、3か月かけて、アルゼンチン中の生産者を回り、食材を知ること。

「アルゼンチンと言えば、牛肉だけではない、
タコ、ハマグリ、スズキ、タラバガニ、ホタテなどのシーフード。キヌアに芋類、豊富なベリー類や、サクランボ、プラム、サフラン。赤道に近い北部では、レモンやポメロ、ライムなどのシトラスやマンゴーまで。改めて、自国の食材の豊かさを知る旅だったよ」

(ロンドン、Zolioでのきょう撮影された一枚。Gian Marioスーシェフと。こういった若いシェフに技術を伝えていっている。)

そうしてオープンしたZolioに続き、二号店としてシンガポールにオープンしたのが、このBochinche。

「もし、『アルゼンチン料理のレストラン』でなく、アルゼンチンステーキハウスで店を出せば、もっとビジネスとしては簡単だし、儲かったとは思う。だけれども、自分はそうはしたくなかったんだ。アルゼンチン料理店は、ZolioとこのBochinche、そしてNYにもう一店、別の店があるだけ。母国の素晴らしい食材の魅力を世界に伝えることは、自分のシェフとしての使命であると思っている。もちろん、簡単なことではないのはわかっている。たぶん、50年くらいかかるだろうし、世の中にアルゼンチン料理が知られるようになった時に自分が生きてるかどうかもわからない。でも、こうして自分が扉を開くことで、若いアルゼンチンのシェフたちに道を作りたい。」

{44A0E17D-7FDC-4184-93EA-79ACD7CA79A1}



美食エリア、Amoy Streetに場所を移し、以前よりもさらにクラス感を追求したアルゼンチン料理を提供しているBochinhe.

Park HyattのNY grillの料理長Federico Heinzmannシェフがアルゼンチン人という事もあり、10月にコラボレーションディナーを行う予定とか。

星付きレストランで磨き上げられたDiegoシェフによる、洗練されたアルゼンチン料理のお店 Bochinche、要チェックです!

公式ウェブサイト
http://www.bochinche.com.sg/