もう日々の記録をしていないので、いつのことであったか記憶はないが、確か、薄曇りの一日のことである。
どうにもやる気が湧かず、といって萎えきっているわけでもなく、空模様さながらのぼんやりした気分で、小さな駅のまわりを走り回っていた。小さな駅らしく、細かな客だらけで辟易気味と言っても良いが、遠出が嫌いな私には不快な状況でもなかった。記憶は淡いが、さほど寒くはなかったと思う。もちろん冬のこと、暑くはないが、もしかすると春が近いのか元わずかに希望をもたらすくらいの気候だったと思う。つまり、短い客だらけでうんざりしていたけれど、あまり不愉快ではなかったわけである。といって、言うまでもないが、機嫌が良いわけはなく、どちらかと言えば気分は腐りかけていたのである。
そろそろ腐臭を放ちそうな気分を胸に小さな駅の乗り場に付けていたとき、目の端にこちらへ向かって小走りしてくる老婦人が見えた。
また、来た。と思った。また、短そうだな、と思ったのだ。もっとも、長そうだな、などと思うことは滅多にないことだが。
長かろうが短かろうが歓迎する気分にはなれないが、私は軽快に後席のドアを開けた。
老婦人は、ちょっと息を荒くしていた。どこから小走りしてきたのかわからなかったが、心肺機能に問題がある人なのだろうか、と気になった。
「ごめんなさい、ハアハア、ちょっとアレなんですけど、ハアハア、行って頂けますか」
なにを言っているのか意味がわからなかったが、ほとんどの客はそうなので気にはならなかった。
「ええ、大丈夫、行きますから安心してください。だいぶお急ぎですか」
「いいえ、ハアハア。うちから走ってきたの。うちの方ではタクシーがないから。ハアー、電話で呼べば良いんですけど、ハアハア、番号が分からなくて、ハアハア、こちらに来た方が早いと思って」
「ああ、それは大変でしたね。おうちからですか」
「ハアハア、ええ、みみず野なんですよ」
「えッ、みみず野からッ」
みみず野は小さな駅の隣町だが、もっとも近い一丁目の外れでもワンメーターギリギリの距離である。ということは少なくとも、その老婦人は一キロ以上の距離を小走りしてきたことになる。しかも、どのようなルートを採っても、一度下って上がることになる。町の境は谷底だから、どうしてもみみず野を下り、小さな駅のカモノハシの方へ上がらざるを得ないのだ。しかも、最低でも上り坂が六百メートルは続くはず。老婦人はそのような地形を小走りして駈け抜けてきたのである。私は、涙が出そうなほど感動した。
「それは大変だ。よしッ、お任せなさい。さあ、行きますよッ」
「ハアハア、ハイッ、よろしくお願いしますッ」
私はすぐさまシフトをスーパードライブモードに叩きこみ、足踏み式のパーキングブレーキを解除し、メーターの実車スイッチを押しそうになったが、どこへ行けば良いか聞いてなかったことに気がついた。
「どちらへ行きますか。まずは、行き先が必要です」
「あら、わたくしとしたことが、失礼しました。ハアハア、ああ、やっと落ち着いてきましたわ。なにせ驚いてしまって、ごめんなさいね。ええと、あのう、どこだったかしら」
こう言うこともよくあることなので私は驚かない。家の場所すら忘れている人はいくらでも存在することを、私は車夫になってから知ったので、家の在処くらい忘れたところでたいした問題ではないと呆けてきた方々は安心して良い。そんな時はタクシーにでも乗りこみ、間抜けそうな車夫に「わが家はどこでしたっけ?」と問えば、ちゃんと最寄りの警察署へ連れて行ってくれるから。
だが、老婦人がど忘れしたのはわが家ではなく、行き先であった。
「お急ぎのご様子ですから、誰かとどこかで待ち合わせ、とかですか」
「いいえ、待ち合わせではなくて、ああ、待ち合わせと言えばそうなんですけど。嫁が待っているんですの、一人で。日本人ではないから、心細いでしょ。だから早く行ってあげなくてはと思って。あああ、どこだったかしら、ハア」
私は途方に暮れかけたが、次の瞬間、老婦人は歓喜の声を上げた。
「お、思いだしましたッ。いッ、いッ」
というところで話はこれからだが、久しぶりにキーを叩いて疲れた。キーボードに触れたのは二週間ぶりくらいのためか。その間、記そうかなと思ったことも何度かあったけど、眠ってしまった。カッキン車夫は、とにかく眠いのである。なので、ニッキンに変えようと画策しているが、営業サイドからも車夫仲間からも邪魔されていて上手くいかない。私を永久カッキン車夫にしようと目論んでいるのかもしれない。
明日も謎めいた生物たちと触れ合う出動日なので眠いから、続きは、また今度。忘れていなければ、だが。