ある名誉教授のつぶやき

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大学を定年退職した側から見た大学生活など

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私は第二言語習得のプロセスや母国語習得との違いについて学んでいるのですが、イタリア語を学ぶにあたって、英語を学ぶこととは違いますか? 

難しいいと感じる点があれば教えていただきたいです。

 

→名詞に「性」があるいことが第一に大変な点かな。

ヨーロッパの多くの言語がそうだけどね。

イタリア語の発音は日本人にとっては結構楽です。

文法は英語に比べると少し面倒かもしれない。

母国語の習得は幼児の頃から何年もかけてなされるわけですし、文法を習うことをしません。

しかし第二言語習得は大抵ある程度の年齢になってから始まるので、その年齢に相応しい知的が学び方をするわけです。

それが文法構造の把握ですよね。

しかし、そのために、特に日本人はそうですが、言語を知的に学びすぎるわけです。

要するに頭で学ぼうとしてしまうわけ。

文法は大事ですが、幼児の学び方を少しは真似する必要があると思います。

馴染みの薄い外国語で話そうとする場合、まず自分の言おうとすることを知るのは、人が思うほど重要なことではない。自国語で先ず自分に対して言ったことを相手の国語に翻訳するというこの行き方、これは自然なものではない。これは明らかに、母親から教わる幼児の行き方ではない。幼児はまずものを言うのであり、言ったことを理解するには一生かかってよいのである。はじめに考えがあってこれを伝えるのではない。むしろ、自分にも不思議な自分自身の言葉づかいのうちに、自分の考えを見出すのである。 

(アラン 『人間論』 原 亨吉訳 アラン著作集4 白水社 1980年 p.224)

「美しい」とするもの「美しくない」とするものは、その「美しさ」まあ誰が何を以て決めているのでしょうか。

「美」の定義とは何なのでしょうか。

そもそも「美」に定義などはなく定義について考えること自体が間違っているのでしょうか。

 

→それこそが「美学」という学問の問題なのですよ。

人々に共通の「美」の規準などあるのか、といった問いですね。

カントというドイツの哲学者は『判断力批判(Kritik der Urteilskraft)』の中でそういう考察をします。

この話をここで全面展開するわけにはいきませんが、いずれにせよ、何が美しいのかを含めて人々は議論するのですよ。

もっとも、彼は主として自然美について考察するのですが。

いくつか、参考になるかもしれない引用をプレゼントしておきましょう。

ここに根柢とされる趣味の定義は、趣味とは美しいものを判定する能力である、ということである。(Die Definition des Geschmacks, welche hier zum Grunde gelegt wird, ist: daß er das Vermögen der Beurteilung des Schönen sei.) 

〔趣味判断の第一契機(すなわち、質の上からの)から推論せられる美しいものの定義〕
趣味とは一切の関心を離れて、満足または不満足によって、対象をあるいは表象様式を判定する能力である。そのような満足の対象は美しいと呼ばれる。 

〔第二契機(すなわち量の上からの)から推論せられる美しいものの定義〕
美しい、とは概念をはなれて普遍的に満足を与えるところのものである。 

〔第三契機(すなわち関係の上からの)から推論される美しいものの定義〕
美とは、合目的性が目的の表象をはなれて対象について知覚せられるかぎりにおいて、対象の合目的性の形式である。 

〔第四契機(すなわち様相の上からの)から推論せられる美しいものの定義〕
美しいとは、概念をはなれて、必然的な満足の対象として認知せられるものである。 
 

イタリアで講義したと聞いて、イタリアと日本の授業の仕方や正当の雰囲気などで大きな違いはありますか?

 

→全然違うと言ってよいでしょう。

集中度がちがいます。

しゃべる人間はいませんし、居眠りをする人もいません。

質問も自由に出てきます。

私が講義したとき、終わったら全員が立ってを拍手をしてくれました。

生まれて初めての経験です。