/伊能忠敬 - Wikipedia/(Inō Tadataka - Wikipedia)
(いのう ただたか[注釈 1]、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)
(Maps of Japan's Coastal Area / Gesamtkarte der Küstengebiete Groß-Japans / Мапа узбережжя Японії)
(だいにほんえんかいよちぜんず)
本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)にかけて江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものである。
伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ[10]、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年 - 1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成した[11][12]。そして同図は全国の主要地点の地名や緯度を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府に提出された[13]。
幕府に提出された伊能図は、江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、一般の目に触れることはなかった[14]。あまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁じたためである。文政11年(1828年)紅葉山文庫を所管する書物奉行でもあった高橋景保が、長崎オランダ商館付の医師であるシーボルト(1796年 - 1866年)に禁制品である伊能図[注釈 1]を贈ったことが露顕し、高橋景保は逮捕され、翌年3月に獄死した(シーボルト事件)。
日本を強制退去となったシーボルトは帰国後の1840年に、伊能図をオランダでメルカトル図法に修正した「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」を刊行している。その精度の高さにより、当時のヨーロッパ識者の一部に日本の測量技術の高さが認識されることになる[注釈 2]。
天明3年(西暦1783年)と 文政4年(西暦1821年)の 時代の差。 今の日本人は 天明と文政の時代の違いを 認識できるか?
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後年、この地図を持ち出そうとしていたことが発覚して国外退去処分とされた外国人は誰でしょう?
#伊能忠敬 の #大日本沿海輿地全図 を完成(1821年7月10日)
伊能忠敬の大日本沿海輿地全図を完成(1821年7月10日): 夜明け前(開陽)
元和7年(西暦1621年)→文政4年(1821年)
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>松前藩の経済基盤はアイヌとの交易にあった。
>天明4年(1784年)からは蝦夷地の開拓を始め、沿岸にいくつかの入植地が建設された。
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