▼70年代前半(『ドラえもん』、『侍ジャイアンツ』、『野球狂の詩』、『ドカベン』)
原作『巨人の星』では飛雄馬は最後の試合の日以来、失踪。『巨人の星外伝・それからの飛雄馬』では、飛雄馬は1970年師走に球界から去った。

WOWOWのアニメ『猛虎・花形満』花形は飛雄馬との非公式の3球対決で敗れ、阪神を引退、元選手として客席で最終回の巨人×中日戦を観戦。試合終了後、花形と明子は結婚し、式場に飛雄馬が駆けつけ、3球対決のボールを渡した。一方、原作とアニメの『新巨人の星』ではシーズン終了後、花形が引退、伴と一徹も中日Dを退団。花形は明子と結婚したが、飛雄馬は祝電をよこしただけで、現れず。

1970年にはブルガリアで女子バレーボール(排球)の世界選手権大会がおこなわれ、ソ連が優勝し、日本は準優勝。『アタックNo.1』の最終回で日本対ソ連の決勝戦が描かれ、日本チームの新人・鮎原こずえは球が分身する魔球を編み出すが、鮎原個人がソ連チームから集中攻撃を受け、日本は惜敗。しかし、鮎原は最優秀選手に選ばれた。

1970年、星飛雄馬が去った直後の巨人は、それでも6連覇を達成した。しかし、川上監督は「サムライがほしい」と嘆く。
秋のドラフト会議、川上は土佐嵐高校の番場蛮を指名(原作『侍ジャイアンツ』)。

1971年(昭和46年)の年明け、川崎の教会で左門と京子の結婚式。飛雄馬は窓の外にいた(『巨人の星』・「エピローグ」)。

『野球狂の詩』によると、この年の2月、北海道の白大雪高校野球部に名投手・火浦健が在籍していた。甲子園で「北は不利」との定説を覆すと期待されたが、ヤクザだった養父の関係で火浦は退部、傷害事件で2年服役(事実上、退学)することになった。
北海道勢初の甲子園Vは、これにより、2004年の駒大苫小牧まで待つことになったのだろう。
火浦のおかげで野球部への入部者が増えていたようだが、退学直前、火浦は2年生以上だったのだろうか。1971年2月は1970年度の学年の3学期に相当し、火浦が1年生だったとしても70年春の入学で、退学しなければ72年春には卒業していたはず。これが双子の弟・王島大介の経歴を複雑にしている。

『ドラえもん』の「プロポーズ作戦」ではのび助と玉子が12回目の結婚記念日を迎えた。1959年が「12年前」だから、この作品ののび太は1971年ごろの世界に住んでいたのだろう。
原作『侍ジャイアンツ』で番場蛮は1971年が一軍1年目で、初先發でヤクルトの眉月光に癖を読まれて打たれたが、すぐ、乗り切り、6勝2敗。

1971年、沖縄返還協定。馳星周(はせせいしゅう)著『弥勒世(みるくゆー)』は沖縄返還(日本による再支配、米軍駐留継続)の直前の話。

1972年(昭和47年)、田中角栄が首相になり、日中国交回復。あさま山荘事件でカップヌードルが全国的に有名になった。『侍ジャイアンツ』で番場蛮と八幡太郎平が飛騨の雪山で特訓し、そこで大砲万作に出会う。中日ドラゴンズの監督になった与那嶺要が大砲を獲得。番場蛮と対戦することになる。番場はオープン戦で、当時、稲尾監督と東尾投手のいた西鉄と対戦し、西鉄ファンから稲尾和久現役時代の再来のように言われた。試合で大砲と初対戦したとき、番場蛮は名古屋に向かう新幹線の中で藤田元司ピッチングコーチ(1931~2006)から先發を告げられた。藤田元司は星飛雄馬がいたときもピッチングコーチで、のちに監督としてやはり対中日戦で番場蛮の甥を起用することになる。

原作では72年、番場は大きな投球動作を、また、眉月に読まれ、王の助言でハイ・ジャンプ魔球を開發。高くジャンプして高所から投げるもので、剛速球が急角度でストライクソーンの上をかすめ、打者には打ちづらいとされる。しかし、柳田理科雄が『空想科学漫画読本』で指摘しているように、ボールの角度を急にするなら地面に足をつけて急角度で投げ上げればいい。これを実践したのが『大甲子園』の犬飼知三郎のマウンテンボールと、『ドカベン・プロ野球編』の坂田三吉の「通天閣投法」である。

『野球狂の詩』の国立玉一郎の現役一年目が次の73年とすると、国立が白新高校の三塁手兼強打者として注目されたのは70~72年になる。国立と同期で同じ三塁だった山井英司は公式戦に出られなかった。ドラフトで阪神は山井を5位で指名したが、山井は断り、東京日日スポーツの記者となった。

同じ作品で江川一高校のショーマン投手・千藤光がメッツから指名されたドラフト会議は「昭和×年全日本プロ野球ドラフト会議会場」の看板に影がかかっていて昭和何年か見えにくい。「昭和49年」にも見えるが、千藤は一年目で73年のオールスターに出ていたので、ドラフトは昭和47年、1972年秋であろう。すると72年夏の甲子園の優勝校は千藤の学校だったことになる。

しかし、千藤が出場した甲子園大会は「第55回全国高校野球選手権大会」とあり、これでは1973年になる。

原作の『侍ジャイアンツ』では巨人がV8を達成するが、番場は対ヤクルト最終戦で眉月にハイ・ジャンプ魔球の投手守備の弱点を突かれた。アニメの『侍ジャイアンツ』では72年の秋のドラフトで巨人が番場を指名した。

1973年(昭和48年)1月15日、南海のスカウトだった岩田鉄五郎が、新潟北明高校出身でノンプロのあぶさんを野村監督に紹介。南海はその年、リーグ優勝し、日本シリーズで巨人と対戦することになる。

1973年(昭和48年)、『野球狂の詩』の岩田鉄五郎(1923~)が50歳で東京メッツの現役投手。

おそらく、この年の2月、星飛雄馬は宮崎の日向三高の野球部入部予定者を臨時コーチしていた。これは『巨人の星外伝・それからの飛雄馬』での記録。ここで飛雄馬は「三年前の師走」に球界を去ったことになっている。
すると1970年12月から3年後だから、73年師走になってしまい、74年2月のほうが近い。しかし、単純に70年から73年で「3年」と解釋して、「外伝」で描いたのは73年2月のできごとと見ていいだろう。

また、『外伝』が『週刊少年マガジン』に掲載されたのは、『「巨人の星」の謎』では「昭和48年(1973年)」とあり、これが掲載されている『新巨人の星』文庫最終巻では「78年」となっている。

飛雄馬がコーチした宮崎県の日向三高は甲子園で準決勝に進出した。この年の夏の甲子園で優勝したのは王島大介の母校・熊本代表の阿蘇高校であった。左門豊作の母校・熊本農林高校は県の予選で敗れたか。阿蘇高校は十月の愛知国体でも準優勝(別の史料によると、73年の国体は千葉の若潮国体で、愛知で国体があったのは1950年と1994年らしい)、王島は本塁打五本。さらにアジア遠征でも王島は四試合で三本の本塁打を記録。

王島大介は火浦健と双子同士で、厳密には北海道生まれだが、大介は九州で養父母に育てられた。しかし、健は1971年の2月で高校生だったので、当時、1年の3学期だったとすると、大介も同学年であろうから、70年春入学、73年春に卒業していたはず。すると、王島大介は高校を1年留年したことになる。

豊福きこう『水原勇気0勝3敗11S』によると、『あしたのジョー』(アニメでは『あしたのジョー2』)の最終回で矢吹丈がホセ・メンドーサ(*Jose Mendoza)に判定で敗れたのはこの年らしい。ホセ・メンドーサは試合終了直後に一瞬で白髪になった。

1970年代の阪神打線

梶原一騎原作「侍ジャイアンツ」で描かれた昭和46年、甲子園球場、傳統の一戦。

漢数字は打順、アラビア数字は守備位置。
一・9藤井
二・?鎌田
三・?藤田平
四・2田渕(漫画で「淵」でなく「渕」と表記)
五・?遠井
六・7カークランド
七・?池田
八・?後藤
九・1江夏

巨 1
神 0
G番場蛮完封勝利。1安打は最終回二死、T江夏の代打ウルフ・チーフのバントヒット→牽制で試合終了。
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水島新司作「野球狂の歌・あて馬」より。1973年(昭和48年)が舞台と想われる。

一・6藤井
二・4中村勝
三・9カーク(=カークランド)
四・2田淵(「渕」でなく「淵」と表記)
五・3和田
六・7藤井
七・8池田
八・5大倉
九・1山本和

次に「ガッツ10番」で描かれた昭和50年(1975年)5月7日の試合。
昭和49年(1974年)ドラフトで東京メッツが日下部了を指名したあとの開幕戦。

阪神先發投手不明。7回から江夏が救援。
9回表、T藤田平レフト前ヒット→野田犠牲バント→遠井の2遊間を行く打球を富樫が捕球し2塁送球で併殺。

岩田鉄五郎は「藤田平3の2、田淵も3の2、おまえの打たれた五本のヒットのうち、四本を打ったふたりが三番、四番とつづく、がんばれ富樫、ガッツ
10番」と言っている。
打順で矛盾あり。

富樫平八郎が見ていたカレンダーでは5月7日は火曜日だったが実際は水曜日。5月7日が火曜日だったのは前年74年の5月7日。
また、描かれている半身の監督は金田正泰のようだが、75年からは吉田義のはずである(梶原一騎原作「新巨人の星」参照)。

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2008年9月16日 [2] [3]

前後一覧
2008年2/28(1968年大リーグボール1号~1973年「よれよれ18番」)
2008年2/28(1969年消える魔球~1973年大回転魔球)
2008年2/28(1973年番場蛮~1977年~79年右投手・星飛雄馬)

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侍ジャイアンツ 野球狂の詩 プロポーズ作戦