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なぜ武田勝頼は無謀な決戦を挑んでしまったのか。 長篠の戦いの実態について動画で紹介しています!

なぜ勝頼は無謀な決戦を挑んだ?挟み撃ちにあう武田軍 長篠の戦いの真相【どうする家康】 - YouTube

 

1575年6月29日、長篠の戦いが起こりました。 織田徳川連合軍が武田勝頼を破り、武田家が衰退するきっかけとなった戦いです。 鉄砲三段撃ちが有名ですが、実際は一進一退の攻防が続く中、武田軍の別働隊が馬防柵を迂回して徳川軍の背後に出たところを伏兵に袋叩きにされ総崩れになったとされます。

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長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代天正3年5月21日(当時のユリウス暦1575年6月29日。現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。

決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』・『信長公記』)だったため、長篠・設楽ヶ原の戦い(ながしの・したらがはらのたたかい)と記す場合がある。

 

448年前の今日、長篠の戦いが行われ、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春などの武田重臣達が戦死。赤備えの山県は当時も名高く、信長公記でも織田側が討取った将の筆頭として記載され、長篠合戦図では志村又右衛門に抱えられた生首が描かれています。信長の侵攻により武田は滅亡すること、この戦の7年後。

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令和5年6月

 

参照

「どうする家康」、長篠の戦い