平成31年tw

/葉っぱ屋🍀Nagako Ono(@HAPPa_Ya)さん / Twitter/

返信先:@feedback515さん

悔しいのは、自分が西暦主義なのにも関わらず親の誕生日を昭和何年でしか覚えていない事。そのくらい元号が刷り込まれている。まずは自らの昭和・平成的洗脳を叩き直し、身近な年号を西暦に変換し直す事から始めたい。明治の人は長生きだったよねーなどの発言も封印です。個人の所作から始めたい。

/午後6:08 · 2019年3月29日/

 

令和4年tw

/ヒロ(@hirotanaka1130)さん / Twitter/

平成12年頃から、年号の発言や表現には西暦を使うようになった。 

今では当たり前のように使っている。 

1960年とか、1972年、1989年、1995年とか言うようにだ。 

その年代で生まれ育った自分は、過去の人で、現在は存在すべきではないと言われいるように感じられる。

/午前5:39 · 2022年5月24日/

 

/ヒロ(@hirotanaka1130)さん / Twitter/

日本国内での出来事について、明治以降は元号で年号を呼ぶようにしてほしい。西暦で表現すると何年ぐらい前の出来事か計算しやすい。でもこの呼び方だと自分がまだ生きているのに、大昔の人の時代のようで、自分の存在が亡くなってしまっているように感じられる。

/午後7:55 · 2022年6月1日/

 

「日本国内の出来事を表すときは西暦で表してほしい」という意見は、裏を返せば「海外のことは西暦でいい」という主張と同じだ。元号派は海外のことや「大昔」のことでは西暦に妥協している。

また「西暦で表すと、今生きてない人の時代、大昔のイメージになる」と思っている人がいるようだ。

これは、例えば「1600年関ヶ原合戦」のように「大昔」だと西暦で表し、「慶長5年」のような元号を使わないということだ。

元号を使いたい人、他者に使ってほしい人は、日本国内と海外、自分たちの生きた時代とその前の大昔の間で線引きをして、一方は元号、他方は西暦という風に使い分けをしているようだ。

もちろん、日本国内のことでも、大昔から現在まで西暦でとらえている人にはそんな線引きは関係ない。

それに平成生まれにとっては平成と令和は「自分たちの生きた時代」だろうが、明治から昭和までは慶応以前と同じく「大昔」であろう。

逆に1793年生まれ、1855年没の遠山金四郎の生涯を「寛政5年生まれ、安政2年没」と表現したら、遠山の金さんが「今でも生きている人」になるんだろうか?

むしろこういう人の考えは、今、生きていない人の時代(大昔)を西暦で表すことによって、自分たちと関係ない時代として切り捨てることを意味する。

こういう考えを持っているのは明治・大正・昭和生まれだろうが、昭和生まれは明治と大正を元号で表しても、それらを自分たちと関係ない過去の時代として切り捨てているように見える。自分たちが明治生まれと同じ古い人と思われるのを異常に恐れる感情がその一例だし、海部俊樹首相が初の昭和生まれの首相だと知って驚く感覚、あるいは「青天を衝け」で富岡製糸場が昭和末期まで操業していたことに驚く感覚もそうだ。

西暦と元号だけでなく元号同士でも「自分たちの生きた時代、生まれ育った時代」と「それ以外」を分断する考えがあるようだ。

今の日本では明治大正話を和暦で表しながら慶応以前と平成以降を西暦で表す傾向がある。

関ヶ原の合戦(慶長5年)と東日本大震災(平成23年)を西暦で表す一方、第二次世界大戦の前後を元号で表すような例だ。

そういう使い方をする人たちは東日本大震災のような平成の出来事を「歴史上の出来事」と考えているのだろうか?

「元号を使ってほしい」と主張する人も、結局「明治以降の元号」だけを望んでいて、慶応以前は西暦に妥協している。また、「平成になってから西暦を使うようにしている」という昭和生まれの西暦派も昭和の時代の話になると西暦に妥協する場合がある。

 

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