1970年前半戦、飛雄馬は大リーグボール2号を花形に打たれ、自分の判断でマウンドを降りて甲子園球場を出て新幹線で東京に帰ってしまった。

その後、夏の球宴に登板した時まで、飛雄馬の登板の記録は無く、札幌遠征でベンチ待機だったことが述べられていた。

 

1976年に星飛雄馬が右投手として復帰し、1977年に左門豊作一人に打たれた時、王からの進言によって長嶋は星を二軍に落とした。星は4勝1敗の好成績だった。

左門はタクシーで新聞を読んで星の二軍落ちを知り「巨人さん、わしに星投手というカモを一切れ食わして、さっとひっこめた」と言った。

 

1978年に星は大リーグボール右1号「蜃気楼の魔球」を編み出したが、ヤクルトの花形に打たれ、横浜大洋の左門にも打たれた。左門に打たれた時は、試合では巨人が勝っていた。

 

阪神のロメ・南条は途中から「こんな手品の相手にはならん」と言って魔球の打倒を捨て、速球を打って飛雄馬を倒すことにした。これは一徹の提案による守備陣の連携で阻まれた。

花形が蜃気楼の魔球を打った後、星飛雄馬は長嶋監督からの命令に從い、中日や広島を相手に魔球で勝ち続けたが、これがヤクルトの順位を上げる結果となった。

 

この時点で、魔球の謎解きはどうでもよくなっており、飛雄馬とライバルの個人の勝負よりチームの勝敗が重視され、さらにチームの勝敗よりペナントレースが重要になっていた。

これは梶原野球漫画が約10年間で大きく変化したことを意味する。

 

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2019年9月 

 

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