この3つ(『昭和40年男』2014年10月号で紹介された3つの場面)は飛雄馬が左門、花形、オズマに敗れたことと関係がある。
まず星一徹が言った「本当の強さは優しさの中にある」という趣旨の台詞は1968年(昭和43年)春の開幕戦、星飛雄馬が速球を左門豊作に打たれて降板、二軍に落ちた時、一徹が牧場春彦に語ったもの。
まず星一徹が言った「本当の強さは優しさの中にある」という趣旨の台詞は1968年(昭和43年)春の開幕戦、星飛雄馬が速球を左門豊作に打たれて降板、二軍に落ちた時、一徹が牧場春彦に語ったもの。
左門が星飛雄馬の「打たれればよく飛ぶ球質」に気付いたのは、直接的には牧場春彦が左門に余計なことを喋ったからだが、飛雄馬は速達の葉書で「牧場さんのせいじゃない。気にしないでほしい」という趣旨で気遣う文を送った。電報は有ってもEメールなど無い時代。
星一徹が「本当の男の格好良さ」について明子に語ったのは1968年の後半戦の時。オールスターの後、花形は飛雄馬の大リーグボール1号を打つために、鉄球を鉄バットで打つ特訓をし、普通のバッティングができなくなって不調に陥ったが、それでも見事大LB1号を打倒した。
1969年(昭和44年)前半戦、中日のアームストロング・オズマが大リーグボール1号を打倒した。オズマは一徹の考案による大リーグボール打倒ギプスで特訓し、その結果、飛雄馬の大LBのみならず、他の投手の普通の速球や変化球も確実に打てるようになった。これが花形の特訓と違うところだった。
星飛雄馬は1969年夏の球宴を辞退。大リーグボール2号を編み出すための特訓に入る。川上監督は1号の改良を提案し、登板を命じたが飛雄馬は拒否して二軍落ちを命じられた。その時、飛雄馬が伴に語ったのが小5の冬の「早朝マラソン近道事件」であった。
ちなみに、この1969年のオールスターの時、アポロ11号が月面に着陸。飛雄馬が大リーグボール2号を編み出すために特訓(投球練習)をしていた時、夏の甲子園では青森・三沢高校の太田幸司が活躍。#中秋の名月
の時に飛雄馬の消える魔球が完成。翌70年春のオープン戦で飛雄馬は近鉄の太田と対戦した。
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昭和44年夏、星飛雄馬が川上監督の命令に逆らった場面は、その後、平成の世になって、豊福きこう氏や河崎実氏によって「飛雄馬のプロ意識の少なさ」または「一徹による洗脳の強さ」の例として取り上げられるようになった。
星飛雄馬が大リーグボール2号を編み出したのは1969(昭和44年)年9月、#中秋の名月 の時。飛雄馬はシーズン終了間際に勝ち星を重ね、巨人のV6に貢献したものの、翌1970年(昭和45年)春までのオフ期間に消える魔球の秘密は花形によって解明され、1970年開幕の時点では魔球は風前の灯火だった。
1969年前半戦に大リーグボール1号を打倒した中日のオズマは日本では1年契約で、後半戦で2号に敗れたのち、1970年の年明け早々、アメリカに帰国した。そこで、1970年春の開幕前、星一徹は中日から巨人に投手1名を提供する代わりに、巨人にいた伴宙太を中日に移籍させた。
あくまで結果論だが、もし星飛雄馬が川上監督に命令に從って1969年のシーズンをを大リーグボール1号だけで乗り切っていたら、強敵オズマは1970年初めに帰国していたのだから、飛雄馬は1969年夏の球宴の後に二軍落ちする必要は無く、実際よりも、もっと勝ち星を稼げたはずだ。
1970年春の開幕後、星飛雄馬は中日戦と阪神戦に2回登板し、花形に消える魔球を打たれると、それから夏の「屈辱の“夢の球宴”」まで登板の様子は描かれていない。もし飛雄馬が1969年のシーズンを1号で乗り切り、オフ期間に2号を編み出し、1970年から2号を使っていたら、もっと活躍できたはずだ。
『巨人の星』の星飛雄馬は1970年師走に失踪。『侍ジャイアンツ』の番場蛮は「巨人を中から倒す」と宣言して巨人に入ったものの時代は巨人の時代は下り坂にさしかかり、番場蛮は1974年に殉職。星も番場もいなくなった巨人は、1975年、最下位に沈んだ。