明治以降の「一世一元」(天皇1代で元号は1個だけ)を江戸時時代に当てはめ、天皇に対応する元号を一つにしぼって他を排除したらどうなるか。
「天正」「慶長」「慶安」「享保」「天保」「安政」といった「有名」な元号が「排除」される結果となる。
豊臣秀吉による天下統一~朝鮮出兵(文禄・慶長の役)~秀吉没~関ヶ原~徳川家康・秀忠の治世(大阪夏の陣)
明正天皇の時代は、先代・御水之尾天皇の治世の2つ目の元号「寛永」が引き続き使われ、明正天皇在位中の改元は無し。
霊元天皇即位後の最初の改元(寛文→延宝)は10年後であり、むしろ即位から2年前の改元(万治→寛文)の方が近い。
将軍綱吉の政治は「天和の治」と呼ばれるが、綱吉の時代の元号で代表的なのはやはり元禄。宝永は富士山噴火で記録に残るが、天皇即位による改元でなかったので、一世一元のルールを当てはめると「無駄」な元号だったことになる。
家宣~家継(正徳の治)~吉宗(享保の改革)
1709年、将軍綱吉の死去と同時期に天皇が交代。これによる改元は2年後の1711年。
「享保」は将軍による代始改元だが、この例は少ない。吉宗の治世は中御門天皇の時代と桜町天皇の時代に分割される。享保の終わりが大岡越前守の南町奉行辞任、寺社奉行就任と一致しているのは興味深い。
家重の治世(1745年吉宗隠居~1751年吉宗没~1760年家重が将軍の座を家治に譲る~1761年家重没)
吉宗の没年(1751)に改元が行われた。
家治(田沼時代)~家斉(寛政~文化~文政~天保)~家慶(天保~弘化~嘉永)~家定(嘉永~安政)~家茂(安政~慶応)~慶喜(慶応)
第119代 光格天皇<在位1780 - 1817> 天明<1781~1789>→(寛政)→(享和)→(文化)
第120代 仁孝天皇<在位1817 - 1846> 文政<1818~1830>→(天保)→(弘化<~1848>)
第120代 仁孝天皇<在位1817 - 1846> 文政<1818~1830>→(天保)→(弘化<~1848>)
家治の時代には頻繁に天皇が交代しており、元号は宝暦~明和~安永~天明である。この時代は「田沼時代」と呼ぶ方が簡単だ。
寛政2年(1790年)、大黒屋光太夫はロシアで日誌に「天明十年」と書いたらしい。実際は天明9年に元号が「寛政」になっていたので、「寛政二年」とするのが「正しい」わけで、海外で日本の改元を知らなかった光太夫がそう書くのは近田がなかった。しかし、これは「誤り」とは言い難い。一世一元の原則で考えると光格天皇の治世の元号は「天明」だけで充分であり、光太夫の「天明十年」は妥当であった。一部のカレンダーに「平成30年 昭和93年 大正107年 明治151年」などが併記されている例や、免許証の期限が「平成32年」「平成35年」になっているのも、元号の性質から考えておかしくない。
「文化・文政」は光格天皇末期と仁孝天皇初期に分割される。
幕末は目まぐるしく改元されたようだが、一世一元の原則を当てはめると「文政」の後は「嘉永」のみで充分であり、「天保」も「安政」も「慶応」も不要となる。
もし幕末の元号を「嘉永」で統一すると、黒船来航(嘉永6年)の5年後に始まった「安政の大獄」(安政5年~6年)は「嘉永11~12年」の出来事になり、慶長3年の大政奉還は「嘉永20年」に行われたことになるので、「安政の大獄から10年後が明治維新」ということが、わかりやすくなる。
前後一覧
Y!Blog>〔平成30年葉月〕
Ameba Blog>〔平成30年8月〕
関連語句
明正天皇(内容検索)
参照