杉本高文は195571日生まれ。桑田佳祐は1956226日生まれ。
東京タワーが完成した1958年当時、2歳~3歳。
この時、星飛雄馬の住んでいた長屋では一徹がテレビを壊してしまった。
東京五輪が開催された1964年当時、さんまは9歳、桑田佳祐は8歳。
 
「勝手にシンドバッド」の歌詞で「今何時(いまなんじ)?そうね、大体ね」というのがある。1988年のサザン10周年特番で、明石家さんまがこの歌詞について、CMの影響を指摘していた。当時、「今なんどき?はーい、ラーメンどきよ」というCMの台詞があって、さんまは「勝手にシンドバッド」を聞いたとき、「今なんどき」のパクリかと思ったらしい。
当時は「今なんじ?ビーフあじ」というのもあった。
 
明石家さんまによると、明石家さんまと桑田佳祐はテレビにかじりついて番組を見る世代だから、強烈に印象に残ったものを、無意識にネタや作品として出してしまうらしい。
「勝手にシンドバッド」は「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」の合成で、桑田佳祐が次の曲をどうするか悩んでいたとき、久米宏(黒柳徹子だったかもしれない)は「君の瞳は絶体絶命」を提案したが、結局は「気分しだいで責めないで」になった。
 
 テレビの時代ではテレビが藝能界の代名詞となり、「テレビに出る」ことが活動していることの証明で、「テレビから消える」は「藝能界から消える」ことを意味した。
 
サザンオールスターズはデビュー当時、テレビに出すぎて体力に限界が生じ、レコーディングに専念(專念、转念)するため、テレビ出演を自粛、建前ではこれは「休養中」だった。実際は数枚のシングルと1枚のアルバムを出し、映画音楽もやったので休業でもなんでもなかった。世間ではテレビに出ないと「活動してない」と思われるので「休んでいる」という建前でテレビの仕事を断る以外なかった。
桑田佳祐はテレビ出演のときの苦労をアルバム『タイニイ・バブルス』(1980)の収録曲「働けロックバンド(Workin' for T.V.)」で歌っている。歌詞にhard day's nightというフレーズも出てくる。
 
 山藤章二が岩波新書『似顔絵』で語ったように、テレビは藝能人の「本業」をわからなくする媒体であり、歌手も俳優も落語家も漫才師も「お喋りするタレント」にしてしまう。
特に、さんまが確立したバラエティ番組のスタイルは、あらゆる藝能人がひな壇に並んで座って喋る番組。歌手が歌を、俳優が演技を披露する場ではない。
テレビはスタジオで喋っている人の顔を映す。黙っている人は映らない。さんまは他の人が喋り終わる時に、反論があるわけでもなくても自分が喋って、カメラを引き付ける。その辺は実にうまく、テレビ時代に適応したタレントである。
アニメもドラマもこの手のバラエティ番組に食われてしまい、地上波の連続時代劇の減少につながっている。時代劇の「衰退」は結局、テレビの地上波の連続枠に限定した話で、BSでは新作が放送されており、時代劇のメインは電気紙芝居(テレビジョン)から活動写真(映画)に戻りつつある。
 
 
『テレビはもう要らない!』⇒  #アメブロ @ameba_officialさんから。
>ひな壇芸人の番組ばかりでアットホームな健全な笑いは無くなってしまいました。
明石家さんま(62歳)と桑田佳祐(61歳)は「自分たちはテレビを見て感動した、まだ感動できた世代」として特別視しており、
逆に「テレビをすごいと思わない世代」はその下、今の20代、30代だけでなく、40代、50代をも含むのだろう。
一方、とんねるずや爆笑問題の世代になると、テレビを見て育ったテレビっ子であって、テレビの影響力は熟知しているが、物心ついたときにすでにテレビが存在しており、テレビはあって当たり前、テレビを始めてみたときの「感動」はなかったか、感動しても記憶には残っていないだろう。
逆に明石家さんまや桑田佳祐より上の世代は、テレビのなかった時代に映画や舞台を楽しみ、「電気紙芝居」と呼ばれて見下されていたテレビが徐々に市民権を獲得した経緯を知っているはず。
 
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