戦時中の日本では大多数の庶民にとって「食糧」「生活」が第一であり、戦争への賛否はどうでもよかったのだろう。昨年の参院選でも「日々の生活が大変」という理由で棄権した(投票しなかった)人がいたようだ。
 
英語のタイトルは in this corner of the worldで、「この」は「片隅」にかかる。
うっかりすると in the corner of this worldかと思ってしまう。
 
ゲンの父・大吉は戦時中から反戦主義者だったが、治安維持法制定や日本の戦争をなぜ防げなかったのかが問題。大吉は「金持ちが軍部にあやつられて、金儲けのために、わしら国民に無断で戦争を始めた」と言う。「自分たちの知らないところで勝手に始まった戦争」という認識だ。
 
すずは写生をしていて憲兵に捕まった。しかし当時のすずたちにとってこれは、今の「ジテンシャ3人乗り」や「駐車違反」で警察に呼び止められるくらいの「日常のちょっとした不運」だったのかも知れない。 憲兵もノルマ達成のために重箱の隅をつついて点数を稼いでいたのだろう。
 
治安維持法制定は西暦1925年(大正14年)。の作者は1939年生まれだが、ゲンの両親は1925年当時、おそらく青年で、一体何をしていたのか、そこが気になる。
 
を取り締まる法律が假にこんなものだったとしても、犯罪予告の書き込みをした奴が逮捕された例はいくらでもあるし、女性や子供が被害者になる暴力や子供へのイジメ・虐待を事前に防げるだろう。
 
と言われるが、もしそうなら、日本人は昭和だけでなく平成になっても「治安維持法」の制定を許してしまったことになる。反対派が国会の外で騒いでも遅い。でも同様で、ゲンの父親が一人で「戦争反対」を叫んでも戦争は終わらなかった。
 
国民が自公政権による関連法成立を許したのはなぜか。与党に投票した人たちはアベノミクスによる好景気を期待したのだろう。つまり経済優先、生活第一である。の時代の日本の庶民も大半は「生活第一」だったのだろう。

 

すずは「戦争」を余り「非日常」とは思わず、「日常」の延長ととらえていたのだろう。だから表だって戦争に反対せず、それでいて、自分が日本の軍と共にアメリカと戦っているという意識が希薄で、目の前で戦闘が始まっても絵が趣味なので「もし今、絵の具があったら…」と考えてしまった。
 
すずは戦時下でも日常の感覚を貫いていたため、兵器に関する講義を受けても、なかば上の空で、路上で不発弾(不發彈)に気付くのが遅れ、姪を守れず、自らの右手を失った。すずは後悔し、径子もすずを責めたが、両者ともアメリカに対する恨みや報復は余り口にしていなかったようだ。
 

Jアラートの数分が無意味と言ってる人たち、その人たちの数分を1945年8月6日の広島の人たちに差し上げたい気持ちでいっぱいです。数分あればどれだけ多くの人が地下街や防空壕に退避できたことか。

午後2:29 · 2017年8月29日

引用ツイート / Twitter

 

うっちぃ~@Obさん (@ucchieoboe) / Twitter

広島の原爆の時は先に空襲警報が出されたけど、それが解除されて人が出てきたところを狙って原爆を投下したんですよね(はだしのゲンにも書かれています)。 だから被害が増えたんだそうです。

午前7:09 · 2017年8月31日

 

 
#はだしのゲン」では、原爆が落とされる前の広島市で空襲警報が日常化し、もっぱら呉や岩国が空襲を受けていた。ゲンの母親は広島に恐ろしいことが起こることを恐れていたが、ゲンの父親は途中から警報を聞いても防空壕に逃げるのをやめてしまった。
 
『はだしのゲン』の単行本第1巻では事実上の主人公は父・大吉だった。少年ゲンはむしろ脇役で、原爆が投下される前は芋や牡丹餅を食べることをに興味を持ち、自分の家族の日常が続くことだけを望んでいたようだ。
原爆が落とされ、惨状を目の当たりにしたゲンは、やっとアメリカを「敵」として意識し、焼跡で出会った軍人に「兵隊さん、はようアメリカをやっつけてやれよ」と言っていた。時すでに遅く、この時点で日本は敗戦が確実だった。もっとも、ゲンは、アメリカの落とした原爆によって犠牲となったアメリカ兵に対しては同情していたようだ。原爆が投下される前にもゲンの父・大吉はアメリカ人の捕虜を見て「あのアメリカ兵にも父や母や兄弟、子どもたちがあるだろうに」と言って同情していた。
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