『はだしのゲン』は終戦当時、子供だった世代の記憶がベースになっているが、『この世界の片隅に』は、その親世代の生活を戦後世代が復元させた作品である。
『はだしのゲン』の1巻の実質的な主人公はゲンの父・中岡大吉である。
ゲンを初め、当時の子供たちにとって、腹いっぱい飯を食うことが目標であり、戦争の大義などはどうでもよかった。
『はだしのゲン』の1巻の実質的な主人公はゲンの父・中岡大吉である。
ゲンを初め、当時の子供たちにとって、腹いっぱい飯を食うことが目標であり、戦争の大義などはどうでもよかった。
大吉は子供たちに食糧を与えるため仕事をするのが第一で、戦争は生活を悪化させるだけだった。しかし大吉が戦争に反対したことで、却って中岡家は他の市民から食料を分けてもらえなくなるなど、反戦が生活を悪化させる結果に直面していた。
大吉は戦争に反対していたが、町内会長に棒で殴りかかるなど暴力的であった。
それは町内会長の息子による英子への濡れ衣や荷物を川へ落とすなどの嫌がらせに対する怒りもあるが、大吉の反戦思想が暴力的で、それが市民の共感を得られなかった理由だろう。
中岡家は知り合いからたくさんのサツマイモを分けてもらったが、警察官によって「ヤミで手に入れた食糧」と見做され、没収されてしまう。この「ヤミ」というのがよくわからない。大吉は「ヤミではない」という反論をしていない。違法だと言われれば違法でないことを証明するのが法治国家である。大吉は子供たちにたくさん食糧を与えることだけを考えていたが、貧しいのは自分たちだけではなく、他の市民を差し置いて自分たちだけたくさんの食糧を得ようとすることに後ろめたさはなかったのだろうか。食糧が兵隊にとられるというがその兵隊も市民が徴兵されて戦地に行った結果である。中岡家の面々は軍人をただの人殺しだと思っていたのだろう。
大吉は、あのような大量のイモをもらったら、警察に没収されることを想定していなかったのだろうか。
大吉が戦争に反対する理由は、戦争のせいで子供たちに食べ物を与えられないからだが、戦争に反対すると却って食糧難になる。周りの市民たちが戦争に協力していた(少なくとも反対していなかった)のも生活のためであった。
後にゲンは隆太、ムスビとともにヤミ米を手に入れ、警察に捕まった時は、警察に反論し、そこにあった食糧を調達して帰った。大吉にとってもゲンにとっても食うことが大吉で法律など守る気はなかった。『浪花少年探偵団』で子供のために犯罪をした母親が登場した。ゲンの両親も「国家が戦争という人殺しをしている以上、自分たちが法など守る必要はない」という考えだったようだ。
『この世界の片隅に』のすずは生活が貧しくなっても戦争反対を叫ばない。ゲンの父親が「食料不足は戦争のせいなのに、なぜみんな我慢しているんだ」と憤慨していたが、その周りの市民の立場で戦争を描いたのが『この世界の片隅に』であった。
すずは不發弾の危険性を学んでもろくに覚えておらず、気づいた時には己の右手と姪を失った。すずの義理の姉がすずを責めたのは当然で、周りの家族がすずに優しかった方が「戦争に慣れた市民」を表している。そして家の面々はここでも戦争反対を叫ばない。
空襲が始まっても自分を守ろうとしておらず、雹や霰でも降ったようで、戦争を天災のように受け取っていたようだ。
日本が負けると、すずは泣き、「(政府は)最後の一人まで戦うと言ってたじゃない。私はまだ片手も両足もある」と叫んでいた。ゲンに言わせれば「最後の一人まで戦う」という状況になったら日本人は滅びるわけで、そうならずに済んだのは原爆の犠牲者のお陰ということになる。
ピカと玉音放送の後、ゲンは名実ともに主人公に近くなるが、作者に代わって大人として戦争反対を述べるのはゲンの母・君江の役割になった。
ゲンたちは戦後、焼け跡に小屋を建てて住んでいたが、ゲンは外に出歩くことが多く、次兄・昭がいつも怒っていた。ゲンは食糧の調達と金稼ぎを第一の使命と考え、一人で、あついは竜太やムスビと出歩いていた。
それで友子がさらわれても、君江が家で倒れても、ゲンが家におらず、ゲンは昭から批判されていた。
友子のケースの場合、ゲンと隆太、ドングリたちはヤクザと組んで、アメリカ軍の基地から食料を盗み出そうとしており、ゲンは友子のためにミルクを盗もうとしていた。しかしヤクザが戦利品である粉ミルクをゲンに渡さず、闇市で賣り捌いていた。ゲンが怒るとヤクザによって殴られまくる。しかしそもそもミルクはゲンのものでなく、米軍からの盗品であるから、ゲンもヤクザも同類である。そして級友だった少女の家に招かれ、罐詰の肉を食べている間に友子が誘拐された。
当時の子供はとにかく食事をすることだけ考えていたようだ。そしてゲンが早く家に帰らなかったせいで友子に悲劇が起きても、ゲンは反省しなかっただろう。
ゲンがモチをもらってきて帰ってきても、昭は怒っていた。
ゲンは食糧調達が第一と考えていたが、昭から見れば、しょっちゅう、どこかに行っているゲンは無責任であった。
すずにとって戦争が起きても日常が続いていたように、阪神・淡路や東日本の震災でも、多くの日本人が秩序を守っていたのは、震災が起きてもそれが日常の延長だったからだ。震災時に犯罪をする奴は震災前からやっていたような人だろう。
『はだしのゲン』において、大吉がいくら戦争反対を叫んでも戦争を防げなかった。そして戦争に反対した大吉が周りの人間を殴っていた。『ゲン』が世に出た1973年当時は、「神田川」の歌もヒットし、学園紛争が挫折し始めた時代だった。
永井豪の『デビルマン』は悪魔と戦うはずの人間が内紛を起こして自滅する話で、学生運動や市民運動が反戦を叫びながら暴力的になり、最後に敵を見失って内輪もめをする構図と似ていた。『ゲン』もそういう時代に描かれた。
『はだしのゲン』『ガラスのうさぎ』『白旗の少女』は終戦当時「子供」だった世代の実体験がもとになっているが、戦後、大人なってからの思想が入り込み、読み手は戦時中を異様な時代、当時の庶民を異様な人と考えがちだ。『ゲン』の作者・中沢啓治は「日本による中国人、朝鮮人の強制連行」や「三光作戦」など見ていたはずがない。たとえ戦争経験者による作品や証言でも、実体験以外の話はあとで勉強して得た知識という意味で戦後世代が語るのと変わらない。
『この世界の片隅に』は焼け跡世代や戦後の団塊世代より「若い」戦後世代が、戦時中のオトナの心情と生活を描いた作品である。
ゲンは生活のために盗みも平気でやったが、他の市民も同じ感覚でいたため、友子が誘拐され、隆太も金を盗まれたのだろう。
ゲンは身を寄せた江波でいじめられた。旭も疎開先でいじめられた。日本人の地元意識はトランプ支持者の移民への反感と似たところがある。
ゲンは天皇やアメリカを批判していたが、直接闘っていた相手は町内会長や江波市民など他の日本の庶民であった。そして全ては「戦争と原爆のせい」に集約される。
君江が病に倒れた時、大吉は「戦争さえなければ」と嘆いたが、戦争を捨てた日本ではネットカフェ難民が「戦争でも起こってほしい」と考えるようになっていたらしい。それは生活のためである。
イギリスのEU離脱を支持したイギリス人は生活のために離脱を選んだ。
トランプを当選させたアメリカの白人たちも生活の「ためにトランプを支持した。
安倍内閣を支持する人もアベノミクスへの期待からだろう。
民衆は「自分の生活」のことを真先に考えるが、それが戦争を防げなかった原因の一つかも知れない。
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2016年8月
2017年2/2(ものがたりの歴史III)
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Yahoo!ブログ - [憲法ヨリハ食糧] の検索結果(記事)
参照
T-CupBlog>ドリフターズによる懐メロの替え歌
T-CupBlog>『はだしのゲン』における「法律」