monogatarinorekishi2012 投稿日:2012/7/8
 
徳川吉宗(1684~1751)は1716年から1745年まで将軍だった。将軍になったのは数え年33歳のとき。
大岡忠相(1677~1751)は吉宗より7歳年上で、南町奉行だったのは1717年から1736年まで。

「暴れん坊将軍」第1部(「吉宗評判記 暴れん坊将軍」)
吉宗(演:松平健)が1616年(享保元年)に8代将軍になった時から始まり、翌年、大岡忠相(演:横内正)が奉行に任命される過程も描かれている。
そして江戸の町火消制定で「め組」が作られたのは1720年まで。
さらに山下幸内が目安箱に投書して幕府を批判した話も描かれていたようで、これだと1721年享保6年)まで話が進んだことになる。
これから吉宗は33歳から38歳、大岡忠相は40歳から45歳ということになる。
山下幸内は第1部の第30話までに登場したようだ。

加藤剛主演の「大岡越前」第1話では吉宗(演:山口崇)が紀伊藩主で大岡忠相が山田奉行だった時代から始まり、その4年後に将軍・吉宗が忠相を江戸に呼んで江戸町奉行に任命している。
大岡忠相が山田奉行だったのは1712年からで、4年後に1716年に吉宗が将軍になった。忠相が江戸の奉行になったのは1717年なのでそれから4年前とすると1713年とも考えられる。
1712~13年当時、吉宗は数え年29~30歳で、忠相は数え年36~37歳だった。

徳川吉宗の将軍在職期間と『大岡越前』の放送期間対照

「暴れん坊将軍」第8部
第10話「陰謀に巻きこまれた黄門様!?」では光圀(1628~1700)の甥・綱條(演:神山繁)が江戸で吉宗(演:松平健)と会っており、綱條の没年は1718年なので時代は1716年から1718年までの間。吉宗が33歳から35歳までの時期。
劇中設定では、吉宗が将軍になった時、綱條が吉宗に進言して、間部詮房を幕府から追放し、それを恨んだ間部詮房が幕政に復帰するため水戸藩の家老たちと組んで綱條暗殺を画策。吉宗によって阻まれていた。間部詮房が何もしなくても吉宗が将軍になって2年後に綱條はこの世を去っていたわけで、その意味ではこの犯行は愚挙であった。綱條没から更に2年後に間部詮房はこの世を去った。
「暴れん坊将軍」では、綱條がいた時期の吉宗に鶴姫(演:中村あづさ)という許嫁がいたことになっているが、西川如見が江戸に呼ばれた時には破談になっていた様子で、更に10年経過した時に竹姫が吉宗の妻になれずに薩摩に嫁いだ。
「水戸黄門」第38部で光圀が源六(後の吉宗)と出会った時(推定1697年)から、または第37部で光貞が吉孚誘拐を謀って光圀が吉孚を奪還した事件(推定1698年)から20年経過していた。
「暴れん坊将軍」第8部第10話で綱條が「すけさん・かくさん」と言った時、め組の面々は「どこかで聞いたことがある」と言っていた。綱條没年は光圀没年から16年後であるから、当時30歳の人なら14歳の時までには「すけさん・かくさん」の話を聞いたことがあったかも知れない。また劇中では既に吉宗の時代に「水戸黄門漫遊記」の講談や読物が江戸で流行している設定だった(実際の「漫遊記」は吉宗の時代から100年以上経過してからできたらしい)。

「暴れん坊将軍」第9部
第1話「遊郭に仕掛けられた罠 吉宗VS闇将軍」
雲切仁左衛門(演:永島敏行)と吉宗の対決の後、吉宗は連座制を廃止。1737年であれば、吉宗は当時54歳か。
第16話「大奥の改革 上様、お恨みいたします!」
吉宗が大奥の美女50名を解雇した有名な話だが、享保の改革が行われた20年間のいつの話か不明。劇中の瓦版でも年号等は確認できなかった。一部の本などでは吉宗が将軍になって直ちに大奥改革に着手したような印象を受ける。
第19話「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」
吉宗が天文学者・西川如見(演:笹野高史)を長崎から江戸に招聘。
如見が吉宗に謁見したのは1719年なので吉宗が36歳の時。
ただし、天狗党一派の背後に尾張藩主・宗春がいることが一派の会話で示されており、宗春が藩主になったのは1730年以降で、その数年前の1724年の如見はこの世を去っている。このことは円道祥之も「空想歴史読本」で指摘している。ドラマの如見が彗星の軌道を正確に算出したことについては、科学史の観点から柳田理科雄が「空想科学読本3」で分析している。
なお、徳川綱條存命時と西川如見招聘の時には町火消は成立の途中で「いろは」47組は未完成だったはずだが、「暴れん坊将軍」では綱條も如見も吉宗に連れられてめ組の火消たちと対面していた。
第28話「江戸城大揺れ!!吉宗ついに結婚か…」
竹姫が吉宗と破談になり、竹姫が薩摩に嫁いだのが1729年なので、吉宗46歳まで。なお、竹姫が嫁いだ年の前年、1728年に天一坊事件があったはず。
第38話(最終回)「天下取りの野望!吉宗VS宗春、涙の対決」
最後のナレーションによると対決の2年後、宗春が藩主の座から失脚したらしい。
宗春が藩主が藩主だったのは1739年までだったので対決は1737年。吉宗54歳のとき。大岡忠相は前年に寺社奉行になっていたはず。 
2006年に放送された加藤剛主演の「大岡越前」最終回スペシャルで大岡忠相が寺社奉行になった。
これは1736年のことで吉宗は数え年53歳、忠相は数え年数え年60歳だった。

「暴れん坊将軍」第11部
第19話「天下無敵の悪党退治!」
山本譲二が長州藩5代目藩主・毛利長門守吉元(1677~1731)を演じた。長門守が藩主になったのは1707年からで、吉宗が紀伊藩主だった時だから、吉宗が将軍になった時、長門守は既に長州藩主だった。
背景となる時代は1616年から1631年までとすると吉宗33歳~48歳。城の爺が「毛利は関ヶ原で徳川に刃向った側」と言い、吉宗は「100年も前のことを持ち出してどうする」。吉宗の時代は関ヶ原から116年以上であり、吉宗が将軍になった時代は大坂夏の陣から101年後であった。

なお、北大路欣也主演の「名奉行!大岡越前」で「直助権兵衛」の一件があり、赤穂浪士の討ち入りから17年後という設定だった。
討ち入りは元禄15年(1702年)12月14日(陽暦では1703年1月末)で、17年後は1719年または1720年である。
権兵衛の処刑は享保6年(1721年)7月13日。山下幸内による幕政批判の投書と同時期である。

加藤剛主演の「大岡越前」でも扱われた天一坊事件は前述のように1728年で、吉宗46歳の時。忠相は53歳だったが、実際は忠相が裁いたわけではなかったようだ。大河「吉宗」でも天一坊事件は扱われるが忠相は 関与していないようだ。北大路「越前」で御落胤騒動があったが(「子連れ狼」の大五郎役で北大路と共演した小林翼が子役で出演)、それは「実母養母子争い」の話で天一坊事件ではない。

前後一覧

参照
AmebaBlog
徳川光圀と吉宗の歴史【年表】

 

吉宗、家重、家治

└→家重の生年を疑似西暦で1711年とし、忠相の没年を疑似西暦で1751年とし、数え年採用。

 

『大岡越前』『暴れん坊将軍』主要登場人物年齢変遷

 

大河ドラマ『八代将軍吉宗』で描かれた歴史と徳川吉宗の年齢変遷

 

大岡越前』『暴れん坊将軍』主要登場人物年齢変遷(徳川吉宗、宗春、家継、家重

 

『水戸黄門』『忠臣蔵』『暴れん坊将軍』『大岡越前』「鬼平犯科帳』『遠山の金さん』主人公生没年

 

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