#八重の桜 1894年 廣島陸軍豫備病院
posted at 20:01:58
 
#八重の桜 最終回
画面の副題は「いつの日も花は咲く」。
新聞のテレビ欄では「絶対にあきらめない!今、福島・東北に誓う」。
posted at 20:06:26
 
#八重の桜 最終回
清国の負傷者が痛みを訴えていた時の台詞は「疼死我了」だったか。
posted at 20:08:37
 
#八重の桜 最終回
清国人は日本人を信頼せず、八重が説得。シナ人の反日感情は自分が受ける治療をも拒否する。
posted at 20:10:03
 
#八重の桜 最終回
日清戦争は「」でも描かれていた。
posted at 20:10:46
 
#八重の桜 最終回
八重は新聞記者に病気で苦しむ人のことも報道してほしいと言ったが、記者は戦意を鼓舞する記事を優先、読者もそれを望むと主張。
#秘密保護法 を連想する話だが、好戦的な記事を好んだ国民にも責任がある。
posted at 20:12:52
 
八重の母らしき人は1886年で85歳?数え年でそうなら1802年生まれか?水戸斉昭より2歳年下か。
posted at 20:21:46
 
この人の名前はさく。明治29年没。#八重の桜 
posted at 20:23:59
 
圓能斎 #八重の桜 
posted at 20:27:56
 
」の没年が1883年で、「」最終回の秩父事件が1884年。「」の岩崎弥太郎の没年が1885年。明治憲法は1889年公布。「」の最終回は1894年の日清戦争から話が始まる。 
posted at 21:45:46
 
」最終回で描かれた日清戦争(1894~95)の後、「」で描かれた雪中行軍遭難事件が1902年。次に「」「」で描かれた日露戦争(1904~05)の時代に移る。1903年、 誕生。
posted at 21:57:58
 
」最終回で描かれた日清戦争(1894~95)、そして「」で描かれた日露戦争(1904~05)の後、1907年に が奉公に出され、日露戦争の脱走兵がおしんに戦争の悲惨さを語った(1907年末または1908年初め)。
posted at 22:06:05
 
」最終回、日清戦争から数年、ロシアとの戦争の気運が高まる。八重は新聞社の人に「お宅の新聞は最近、政府の機関紙のようですね」と苦言。「自分は戊辰戦争で銃を持って戦ったが、もし今(明治後期)最後の一発を撃つなら空に放つ」と述べたようだ。
posted at 22:12:02
 
「篤姫」の最終回でも篤姫が勝と話す場面がありました。
徳川宗家16代当主・家達の妻が懐妊したという話で、1883年に篤姫没、翌1884年に家達の子・家正が誕生し、同じ年に日清戦争が始まりました。
posted at 22:38:42
 
 
日清戦争以後、日本を次の戦争(日露、日中、太平洋戦争)に駆り立てたのは当時の世論と新聞社だったらしい。「軍部の暴走」に責任を押し付けて被害者ぶっている戦後の日本人は、自民党に投票し秘密保護法成立を許しても反省していないだろう。
posted at 14:21:26
 
今年(2013年)話題になった「」ではゲンの父が「一部の金持ちと軍部が武力で資源を獲る為に戦争を始めた」と言っていた。一方、ゲンの父の反戦思想を封じ込めようとしたのは周りの広島市民であった。
posted at 14:29:22
 
」に登場するゲンは1937年度生まれ(1938年早生まれを含む)で日中開戦の前後に生まれた。ゲンの父親の年齢はわからないが、1945年当時40歳くらいとすると日露戦争(1904~05)の時に生まれたことになる。
posted at 14:33:54
 
@kyojitsurekishi #八重の桜 最終回
明治29年は戊辰戦争から28年後。
posted at 14:56:43
 
@kyojitsurekishi #八重の桜 最終回
八重は若い頃は戊辰戦争で銃を取って戦い、年齢を重ねると戦争に対して否定的になったようだ。その八重が「政府の機関紙のよう」と評した新聞社の若い記者が好戦的だったが、八重の若い頃を考えれば致し方ないだろう。
posted at 14:58:11
 
西田敏行は「翔ぶが如く」で西郷隆盛も演じていましたね。「八重の桜」では隆盛役は吉川晃司でしたか。
posted at 15:08:16
 
平成25年(西暦2013年、明治146年)12月15日 
 
 
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2013年12/15 12月
 
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