『巨人の星外伝・それからの飛雄馬』は『新巨人の星』の文庫第6巻巻末に収録されており、『週刊少年マガジン』の1978年2月12日号掲載とある。
『それからの飛雄馬』で星飛雄馬が宮崎県の日向三高の野球部入部予定者をコーチしたのは失踪から3年後で、失踪は対中日戦で完全試合達成の年の師走という設定。すると70年師走から73年1月~3月では時間の間隔が2年と1~3箇月になる。もし74年の自主トレ~宮崎キャンプ時なら失踪から3年と1~3箇月になる。
「3年」がまる3年でなく、1970年+3年という意味なら臨時コーチは西暦1973年になる。
入部予定者を選んだのは当時の高野連の規定に配慮したからだが、飛雄馬は現役部員にもノックをしていた。

 

このとき、日向三高が泊まっていた宿舎にいた少女が3年前の中学生または高校生時代(セーラー服姿)に撮った星飛雄馬と一緒のツーショット写真を持っていた。これはこの少女によれば「飛雄馬が巨人に入った年の最初の宮崎キャンプ」のときだったらしいが、飛雄馬が巨人に入ったのは1967年秋以降で、67年のキャンプから半年以上たっていた。飛雄馬にとってプロ入り最初のキャンプは大LB1号のヒントをつかんだ68年の台湾キャンプ。このとき、先に日本の宮崎でのキャンプに参加したのは伴宙太のほう。台湾キャンプが終わり、帰国した飛雄馬は宮崎キャンプに合流した。これが飛雄馬にとっての最初の「巨人選手として参加した宮崎キャンプ」だった。陽子と会って記念撮影をしたのはこのときか?飛雄馬にとって次の宮崎キャンプは「野球人形」からの脱却を目指していた1969年の推定2月~3月(アニメで3月)のとき。前年シーズン終了時の「契約更改」を拒否したままこの年を迎え、原作では飛雄馬はこのキャンプで橘ルミと喧嘩別れ。それと同時に日高美奈と出会い、そのときにやっと契約を更改した。

 

1970年から3年後だと、1973年夏の第55回全国高等学校野球選手権大会(下注釋)と思われる。
  
1970年師走から3年後は1973年師走なので、1974年夏の第56回大会(下注釋)の場合もある。
 
劇中では日向三高は夏の甲子園で準決勝進出を賭けて広島の呉一高と対戦していた。第1試合は不明で、第2試合では「木村工」が5-0で勝利し、第3試合では「向~(陽?)」と「海~」の対戦。
歴史的かなづかいでは「巨人の星外伝 それからの飛雄馬」に登場した「陽子」の読みは「ヤウこ」で、「新巨人の星II」に登場した咲坂洋子の「洋子」も「ヤウこ」になり、「あしたのジョー」の白木葉子の「葉子」は「エフこ」になる。
posted at 01:57:05
 
今から約40年前、番場蛮が巨人にいた時、星飛雄馬は宮崎日向三高の野球部入部予定者数名を臨時にコーチしていた。
 

「新巨人の星」文庫6巻(最終巻)に収録されている「外伝」によると、推定1973年ごろ、飛雄馬が宮崎を訪問。宮崎の旅館で働いていた陽子は学生時代に宮崎で星飛雄馬と会っていて、誰かに記念撮影をしてもらっていたようで2ショットの写真が残っていた。

午前1:46 · 2018年3月30日

 

「新巨人の星」文庫6巻収録「巨人の星外伝 それからの飛雄馬」によると、陽子が星飛雄馬と会ったのは、飛雄馬が初めて宮崎に来た時らしい。これは「巨人の星」文庫5巻で描かれた1968年の台湾キャンプとオープン戦の間の時期だろう。

午前1:49 · 2018年3月30日

 

講談社漫画文庫『新巨人の星』文庫6巻によると、この『外伝』は『週刊少年マガジン』の1978年2月12日号に掲載されたらしい。
 

「巨人の星外伝」で飛雄馬が宮崎を訪れた時、宿で働いていた陽子という女性は、数年前に星投手が巨人に入団して初めて宮崎キャンプに参加した時に撮ってもらった2ショット写真を持っていた。飛雄馬は1967年後期に巨人に入団し、初めて宮崎キャンプに参加したのは1968年。 午前1:52 · 2013年3月1日

午前6:37 · 2021年2月14日

 

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注釋
1973年夏の第55回全国高等学校野球選手権大会
現実の大会では宮崎県代表高鍋高校、広島県代表 広島商が出場。高鍋は3回戦大阪府代表北陽に1-0で敗れ、準々決勝では広島商が7-2で高知商を下し、準決勝でも広島商7-0川越工、決勝でも広島商3x-2静岡で広島商が優勝を決めていた。
別の野球漫画ではどうか。梶原一騎とはライバルであった水島新司の作品で考える。
水島新司の作品である『野球狂の詩』では千藤光(江川一高校)、王島大介(阿蘇高校)、日下部了(新潟西高校)がこの1973年夏の甲子園大会に出たようである(実際は栃木県代表作新学院熊本県代表八代東高校、新潟県代表糸魚川商工などが出場)。
 「ショーマン投手」の千藤光は江川一高時代に1973年夏の甲子園に出場後、東京メッツに入団したが、プロ1年目が高校時代と同じく1973年で時代が推移していない。「北の狼 南の虎」の王島大介は千藤と同様に高校3年から東京メッツに入り、「ガッツ10番」の日下部了は早稲田大学に進学して4年後に大学から東京メッツに入ったはずだが、王島と日下部はいずれも1974年のルーキーであった。
山田世代は1973年当時中3で、江川卓は作新学院3年。ドラフトで阪急から指名されたが、江川は法政大学に進学。
『野球狂の詩』の歴史観では、1973年秋のドラフトで東京メッツが唐部大樹、丘知将、富樫平八郎を指名。師走の入団テストで火浦健を獲得した。『野球狂の詩』で火浦の弟・王島大介は阪神から指名されたが、現実の1973年のドラフトでは阪神は中央大学の佐野仙好を1位指名し、6位指名が習志野高掛布雅之だった。3年後の1976年に掛布は星飛雄馬と「激突」することとなる。
星飛雄馬(プロ野球編の場合、生年月日は1951年4月2日から7月まで)と同学年の山下大輔 (1952年3月5日~)が1973年当時慶應義塾大学4年で、大洋から指名されて入団。同じく飛雄馬と同学年の太田幸司(1952年1月23日~)は1970年に青森県立三沢高等学校から近鉄に入団し、1970年のオープン戦で飛雄馬と投げ合っている。
 
1974年夏の第56回大会
現実の大会では、延岡高校(宮崎県)が8月11日の2回戦で7-0で防府商山口県)に敗れ、 盈進高校(広島県)は8月12日の2回戦では勝利するも(盈進2-1名古屋電工)、8月16日の3回戦で敗退しており(神奈川・東海大相模13-6盈進)、宮崎代表も広島代表も順々決勝に進んでいない。優勝は銚子商で前述の防府商を7-0で破った
これは水島新司の『ドカベン』では山田世代(山田太郎、岩鬼正美、殿馬一人、里中智)が神奈川明訓高校の1年生として甲子園大会に初出場した記念すべき大会である。神奈川明訓は通天閣、土佐丸、いわき東と対戦して優勝。実際には東海大相模神奈川県)、PL学園大阪府)、高知高校(高知県)、福島商福島県)が出場。
8月11日に中京商2 -1高知という結果で高知代表がまず敗退。8月13日に銚子商5-1PL学園、静岡商6-1福島商という結果で大阪代表と福島代表が姿を消し、準々決勝で鹿児島実5-4東海大相模(延長15回)となり神奈川代表が敗退した。
江川卓は法政大学に入学。
『野球狂の詩』の歴史観では東京メッツは昭和49年(1974年)秋のドラフトで日下部了を指名した。

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