<壱>
↓
2011年の『週刊新潮』12/15号で里見浩太朗は東野英治郎について「百姓姿が一番似合う」と言っており、これは同感だ。
光圀役で、ボロを着た百姓姿が似合っていたのは後(あと)にも先にも東野英治郎だけであった。
『水戸黄門』の悲劇は作り手も見る側も東野英次郎の継承から抜け出せなかったことだ。
TBSのナショナル劇場(パナソニックドラマシアター)で『水戸黄門』をやる限り、その呪縛はついて回る。
もし石坂、里見で『水戸黄門』をやるなら、松平長七郎のように、若い青年光圀が江戸の悪人たちを斬るタイプの娯楽時代劇にアレンジすべきであった。それでも視聴者が受け入れないようでは、『水戸黄門』終焉はもはや制作者のせいでなく視聴者の保守性のせいである。
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2011年の『週刊新潮』12/15号で里見浩太朗は東野英治郎について「百姓姿が一番似合う」と言っており、これは同感だ。
光圀役で、ボロを着た百姓姿が似合っていたのは後(あと)にも先にも東野英治郎だけであった。
『水戸黄門』の悲劇は作り手も見る側も東野英次郎の継承から抜け出せなかったことだ。
TBSのナショナル劇場(パナソニックドラマシアター)で『水戸黄門』をやる限り、その呪縛はついて回る。
もし石坂、里見で『水戸黄門』をやるなら、松平長七郎のように、若い青年光圀が江戸の悪人たちを斬るタイプの娯楽時代劇にアレンジすべきであった。それでも視聴者が受け入れないようでは、『水戸黄門』終焉はもはや制作者のせいでなく視聴者の保守性のせいである。
『水戸黄門』終了から数年たって、石坂黄門だけを独立した時代劇として見ると、これも充分に評価できるだろう。必殺シリーズの非主水シリーズも、主水シリーズの間に放送されていた時期と、今になって壱時代劇として観る場合では印象が違ってくる。
石坂黄門は、ナショナル劇場型の『水戸黄門』が終わったあとに作られるであろう新しい時代劇のためのスタッフの実験、参考資料となるかも知れない。石坂黄門の不幸はその時期が早過ぎたことだ。
2011年の時点で『水戸黄門』のスタッフはもう「次」を観ているのかも知れない。スタッフが『水戸黄門』第43部でやっていることは、『水戸黄門』が終わったあとの時代劇または現代劇の脚本作りや演出のための練習も含んでいるのかも知れない。
石坂黄門は、ナショナル劇場型の『水戸黄門』が終わったあとに作られるであろう新しい時代劇のためのスタッフの実験、参考資料となるかも知れない。石坂黄門の不幸はその時期が早過ぎたことだ。
2011年の時点で『水戸黄門』のスタッフはもう「次」を観ているのかも知れない。スタッフが『水戸黄門』第43部でやっていることは、『水戸黄門』が終わったあとの時代劇または現代劇の脚本作りや演出のための練習も含んでいるのかも知れない。
【壱】石坂+里見黄門が東野~佐野黄門の継承であった場合
講談→東野━西村━佐野━石坂━里見→終了 ナショナル劇場『水戸黄門』の“本道”
講談→東野━西村━佐野━石坂━里見→終了 ナショナル劇場『水戸黄門』の“本道”
【弐】石坂黄門が東野~佐野黄門からの脱却だった場合
【弐之壱】里見黄門が石坂黄門に対する反動である場合
講談→東野━西村━佐野┓──┏里見→終了 N劇場『水戸黄門』の“本道”
───────────┗石坂┛───── “本道”からずれた路線
【弐之壱】里見黄門が石坂黄門に対する反動である場合
講談→東野━西村━佐野┓──┏里見→終了 N劇場『水戸黄門』の“本道”
───────────┗石坂┛───── “本道”からずれた路線
【弐之弐】里見黄門が石坂黄門の継承であった場合
講談→東野━西村━佐野┓──────── N劇場の『水戸黄門』の“本道”
───────────┗石坂━里見→終了 “本道”からずれた路線
講談→東野━西村━佐野┓──────── N劇場の『水戸黄門』の“本道”
───────────┗石坂━里見→終了 “本道”からずれた路線
【弐之参】石坂黄門の後期(髭復活)で路線が戻り、里見黄門がそれを継承した場合
講談→東野━西村━佐野┓────┏石坂有髭━里見→終了 N劇場の『水戸黄門』の“本道”
───────────┗石坂無髭┛────────── “本道”からずれた路線
講談→東野━西村━佐野┓────┏石坂有髭━里見→終了 N劇場の『水戸黄門』の“本道”
───────────┗石坂無髭┛────────── “本道”からずれた路線
新聞各紙の『水戸黄門』終了に関する特集記事では、【壱】のように東野から里見まで『水戸黄門』のシリーズ全体が世間で受け入れられなくなったという見方で、それが役割を終えて終了したという分析が主流。
さらに【壱】と【弐之壱】と【弐之参】でも、石坂黄門で一時的に寄り道しただけで、すぐにシリーズが“本道”に戻っており、9年たってその“本道”が世間に受け入れられなくなったという結論になる。里見浩太朗は【弐之参】の立場であろう。
なお、石坂版から一貫して観なくなった人たちは、石坂黄門も里見黄門も“本道”からずれっぱなしで終わったという【弐之弐】の見方であろう。この場合、ナショナル劇場の“本道”としての『水戸黄門』は佐野浅夫の時代が限界だったことになる。佐野浅夫の時代は逸見稔が他界し、さらに個人視聴率が判明して民放各局が地上波の連続時代劇から撤退を始めた時期であった。すると、21世紀になって“本道”からずれた石坂・里見路線が合計10年継続しただけでも大したものである。
さらに【壱】と【弐之壱】と【弐之参】でも、石坂黄門で一時的に寄り道しただけで、すぐにシリーズが“本道”に戻っており、9年たってその“本道”が世間に受け入れられなくなったという結論になる。里見浩太朗は【弐之参】の立場であろう。
なお、石坂版から一貫して観なくなった人たちは、石坂黄門も里見黄門も“本道”からずれっぱなしで終わったという【弐之弐】の見方であろう。この場合、ナショナル劇場の“本道”としての『水戸黄門』は佐野浅夫の時代が限界だったことになる。佐野浅夫の時代は逸見稔が他界し、さらに個人視聴率が判明して民放各局が地上波の連続時代劇から撤退を始めた時期であった。すると、21世紀になって“本道”からずれた石坂・里見路線が合計10年継続しただけでも大したものである。
〔森森森【Mr.ごまめの歯ぎしり】@morimori_nahaさん〕
でも「大岡越前」も「水戸黄門」もさすがに賞味切れ。お上に人情など求めるのが間違い。RT@Juris_tan: 【文化説】川島武宜『日本人の法意識』が代表ね。これは、日本人は権利や義務といった法的な概念ではなく、義理や人情といった概念によって紛争を解決することを好むというものよ。
「大岡越前」を見ると法より情を優先する越前たちが「善」で、厳粛な法の施行を優先する他の幕臣や奉行などが「悪」のように描かれていますが、むしろ敵役の方が正しく思えることがあります。