1969年秋、星飛雄馬が大リーグボール2号(消える魔球)を編み出した。これがアポロ月面着陸の時期だった。夏に星が二軍で伴宙太と魔球を編み出す為の投球練習をしていた時、甲子園では太田幸司が活躍。翌’70年OP戦で太田は近鉄の投手として星と対戦した。
星飛雄馬が消える魔球を編み出したのは1969年9月でシーズン終了間近。その後のオフ期間で魔球の秘密は暴かれ'70年開幕時には魔球は風前の灯。'70年開幕直後、花形に打たれてから飛雄馬は前半戦に登板していない。
もし星飛雄馬が1969年のシーズンを大リーグボール1号で乗り切り、オフ期間に消える魔球を編み出していれば、オズマは'70年にアメリカに帰国していたのだから飛雄馬は'70年の前半戦で勝ち星を稼げたはずだ。
@kajiwara_bot 星飛雄馬の大LB1号復活。アトムズ(現ヤクルト)相手の二軍戦。時代設定は1969年開幕当時。もし飛雄馬が青雲高校を退学せず野球部も存続していたら高2から高3に進級する春のセンバツ大会の時期を終えた時期だっただろう。
posted at 00:20:56
@kyojitsurekishi 星飛雄馬が大LB1号復活後、オズマに打たれたのは1969年前半戦。この1年後の1970年、開幕後間もない時期、飛雄馬は大LB2号(消える魔球)を花形に打たれた。
posted at 00:22:50
@kyojitsurekishi 大LB1号復活の巨人×アトムズの二軍戦。G二軍を指揮していたのは中尾監督で、一軍の川上哲治監督と藤田元司ピッチングコーチは客席で観戦していた。星飛雄馬はスランプになっても金田正一に相談した以外は投手出身の先輩たちの意見を聞こうとしなかった。
posted at 00:27:21
@kyojitsurekishi 星飛雄馬は日高美奈さんと出会った1969年宮崎キャンプの時に17歳、同輩は高2の3学期。大LB1号を復活させた69年前半戦の球宴前の時は18歳になっていた。同輩は高3の1学期。
posted at 00:31:07
@kyojitsurekishi ここから「巨人の星」プロ野球編の飛雄馬の生年月日は1951年4月2日から7月まで。しかしアニメの「巨人の星」第1話の飛雄馬は1957年暮れで小5だったので、誕生日が小学校の1学期の時期とすると1946年生まれ。1969年当時は23歳になってしまう。
posted at 00:33:35
@kajiwara_bot 記者団が一徹に「獅子が自分の子を千尋の谷に突き落とすように息子さんを鍛えようという心境でしょう」と質問した時に一徹が「そんな甘っちょろいものではない」。実際のライオンはそんなことはせず、これは歌舞伎の連獅子の話らしくアニメ「新巨人の星」で出てくる。
posted at 11:54:14
@kyojitsurekishi 1969年前半戦、オズマが大LB1号をHRした時、飛雄馬は18歳。一徹はもし川上哲治と同い年であれば当時49歳で春江が飛雄馬を生んだのは一徹が31歳の時。コンビニ本やネットである「星一徹33歳」説は飛雄馬2歳の時の話だがアニメの回想シーンの話か?
posted at 11:56:57
tweet
2012年10月29日 - 18:42(tweetを単独で見た時の日時、twilogの表示10月30日と少しずれる)
オズマは1970年正月に中日との1年の契約が切れて帰国。もし飛雄馬が川上監督の命令を受け入れて1969年を大LB1号で乗り切っていたら、オフ期間に2号を編み出すこともできたはず。ただ伴がトレードされたら伴の協力なしで2号を編み出せたかどうか。