1992年、松井秀樹が夏の甲子園で5打席連続敬遠されてから20年。
夏の予選で明徳義塾がまた5打席連続敬遠で甲子園の切符を手にした。
 
20年前は社会問題になり、水島新司もインタビューを受けたが、今度は地方予選のせいかマスコミの扱いは小さい。
 
『巨人の星』で1967年夏(プロ野球編基準)の甲子園の準決勝のとき、飛雄馬は左門のきょうだいたちに同情し、涙で投球が乱れ、左門に四球を与えたが、後続の熊本打者を連続三振に打ち取った。
これは作戦としては左門を敬遠した上で次の打者を打ち取って無失点に抑えたのと同じである。
 
この試合、親指を負傷した飛雄馬は決勝で花形を連続敬遠した(1球だけ速球で勝負して、ヒットを打たれたものの、前に出塁していた紅洋の打者=走者を本塁でアウトにしてチェンジ)。
『新約「巨人の星」花形』では飛雄馬は親指を負傷しながら全力投球していた。
 
有名な5打席連続敬遠が『ドカベン』で描かれたのは1977年か1978年ごろと思われる。
山田太郎にとって高2春の選抜大会。
このときの山田世代は1977年度生まれで17歳なら1960年度生まれで、1978年度で17歳だから1961年度生まれであった。
山田を敬遠したのは江川学院の中二美夫投手。モデルは当然、江川卓であろう。奇しくも1978年に江川事件があった。
 
松井秀樹が5打席連続敬遠されたのは1992年夏の大会で、『ドカベン』のそれから14年経過していた。
なお、『ドカベン プロ野球編』以降の時代設定では、山田太郎は1992年春に明訓高校に入学したことになっており、山田が5打席連続敬遠されたのは1993年春の選抜大会である。
ラッキーゾーンは前年から存在せず、決勝で土佐丸の犬神外野手が打者・殿馬の打球を捕ってラッキーゾーンに落下して本塁打、明訓のサヨナラ勝ちとなった試合結果は成立しなかったと思われる(『ドカベン スーパースターズ編』の歴史観ではこのケースで本塁打だったのは1978年までで、1979年以降はアウトになるよう、ルール変更されたらしい)。
 
なお、走者なしでの敬遠は結果としてシングルヒットと同じでそれで敬遠された打者のチームが勝てないのは後続の打者が「走者を帰す」役割を話せなかったからである。
 
1968年の球宴前の前半戦、星飛雄馬は大リーグボール1号を左門豊作相手に初披露した。これは監督命令で仕方がないが、左門のきょうだいたちが見ていたのだから、左門にシングルヒットを打たせて次の打者を大LB1号で打ち取ってもよかった。
それができなかったのは、左腕投手時代の飛雄馬が「プロでライバルに打たれたヒットのほとんどは本塁打」という投手だったからだろう。 1969年前半戦に花形がオズマの打法を模倣して一塁に出塁したケースがあるが、これを花形の安打でなく星飛雄馬の失策とすれば、左投手・星飛雄馬がプロでライバル(花形、左門、オズマ、伴)に打たれたヒットはすべて本塁打になる。
 
星飛雄馬が花形を連続敬遠したことと、中二美夫が山田を連続敬遠したことは、卑怯と思われがちで、特に飛雄馬も中も結果、敗れているので風当たりが厳しい。しかし勝っていれば評価されたはずだ。
飛雄馬は親指を負傷しており、中も肩を痛めていた。
 
山田が連続敬遠されながら明訓が江川学院に勝ったのは、岩鬼や殿馬といった他の選手が活躍したからだ。
 
江川学院が明訓に敗れたのは、殿馬が「秘打・ 回転木馬」で打って一塁アウトになり、殿馬が塁審に抗議し、中たち江川守備陣がこれに気を取られている隙に岩鬼が本盗した結果である。
ところでこの江川学院戦での「秘打・回転木馬」は空振りしたバットにボールを当てるもので、審判の判断次第ではストライク、三振になる可能性がある。
そうなると『侍ジャイアンツ』の大回転魔球や大回転打法と同様で、水島作品も梶原作品と同様、「作者独自のルール解釋(実際の試合ではルール違反になるものが漫画でルール違反でないとされたり、実際はアウトになるケースがセーフだったり…)」によるところが大きい。
 
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2012年7月
 
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