講談『水戸黄門記より 雲居禅師』
講談師・神田松鯉(かんだしょうり)による語り。NHKの『日本の話芸』で聞いた。
講談師は講釋師とも呼ばれる。
6月29日夜9時半に教育テレビで、30日朝4時半に総合テレビで30分放送。
『水戸黄門漫遊記』の一種だが、伊達政宗とその草履取りだった僧侶の話が中心で、水戸黄門と関連付けなくてもいいと思う。
劇中の18歳の伊達政宗は11月半ば、雪の日、草履が暖かいのを感じ、草履取りの「へいしろう(平四郎?)」が懐に入れていたとは思わず、自分で履いたか、尻に敷いたかと思って激怒し、それで草履取りは額に傷を負った。
政宗は本能寺の変の時に17歳くらいで、秀吉の草履取り時代の逸話も知っていたはずだ。
政宗は1567年生まれ。18歳というといつの時代か。
1967年生まれであれば18歳だったのは1985年。数え年で18歳だったのは1984年。
すると政宗18歳は1584年か。本能寺の変の2年後である。
へいしろう(平四郎?)は比叡山延暦寺に入った。十数年修行。延暦寺は信長による焼き討ちから復興したか。
へいしろう(平四郎?)は唐土(当時は明)に渡って浙江省金山寺で数年修行。
草履取りは修行して雲居禅師になった。
唐土で修行して帰国。
江戸初期の唐土は明(1368~1644)から清(1636~1912)の時代だ。
政宗の時代にはまだ明であった。
政宗は仙台62万石。当時は徳川の御代。
慶長15年(1610年)、瑞巌寺がさびれていた。政宗は再建をさせ、名僧を呼ぶことになった。
政宗はへいしろう(平四郎?)と再会し、話を聞いて「若気の至り」と反省した。
政宗は1634年没。水戸光圀は1628年誕生だから政宗没年で光圀は数え年7歳。
この政宗と雲居禅師の逸話を住職から聞いた光圀は、「自分も若いころは多くの人を傷つけた」と反省し、瑞巌寺をあとにしたらしい。
「史実」では光圀は宮城には足を運んでおらず、一番北は福島県いわき市南部の勿来(なこそ)である。
TBSナショナル劇場の『水戸黄門』では第37部第20話「男意気地の悪退治」で松島が舞台になっている。
申珏秀(シン・ガクス)、金星煥(キム・ソンファン)の名前が朝のニュースで出た。
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