小栗旬(Ogri Shun)と岡田将生(Okada Masaki)が『徹子の部屋』に出ていた。
小栗旬は中学3年くらいのとき、いじめられたらしい。子供のうちから藝能活動をしていた人はこういう悲惨な経歴がある。教室で机がゴミためになり、クラスに誰に話しかけても無視され、他のクラスに行って戻るとカバンがなくなっていたらしい。もはや当時の担任の教師も放任状態だったのだろう。
小栗旬は1982年師走生まれなので、同学年は1982年4月2日から1983年4月1日までのいずれかの日に生まれたわけだ。この場合、中学入学は1995年4月で、中学3年だったのは1997年4月からで中学卒業は1998年3月。
この時期の「同級生」が小栗旬少年をいじめたわけだ。
また、あくまでインターネットの情報だが、川村かおりもロシア人と日本人のハーフだというだけで、11歳のときに学校でいじめられたらしい。
川村かおりは1971年1月23日生まれらしいので、日本の学校制度では1970年度生まれに入る。
同学年の誕生日は1970年4月2日から1971年4月1日まで。
川村かおりが11歳になったのは1982年1月だが、当時、彼女は小学5年生で、1981年4月から1982年3月まで小学5年生だったことになる。小学校入学は1977年4月、卒業は1983年3月だったはずだ。
そうなると川村かおりが「いじめられた」のは1982年当時からで、東西冷戦真っただ中。
1940年代にビクトル・スタルヒン(下注釋)が迫害された時代から30年経過しても日本は大して変わっていなかった(下注釋)。
『ブラックボート』の第2夜で描かれた「荒れた学校」の舞台は1980年から1981年。1945年の「終戦」当時、子供だった世代が大人になって、戦後生まれの子供を教育していたときが、「いじめ」と「校内暴力」の時代だったわけだ。
「敵」を作って外交を対立構造にしていた東西冷戦下の自民党政権時代(下注釋)が、こういう子供たちに対するいじめを呼んでいたわけだ。
冷戦崩壊後はいじめの理由も個人的なことに集中していたようだ。
学校は被災のときの避難所の役割も果たすし、社会人になってから同級生や母校は重要である。だが、子供を一定期間、学校に集めることは登下校時の交通事故も含めて危険が大きい。
大学を出た若者が就職できない世の中を作ったのが戦後の日本であり、「高度経済成長」の結果が「希望のない社会」「失われた20年」だった。「終戦」直後の焼け跡の時代、学校などそっちのけで町工場で労働をさせられた(させてもらった)孤児たちのほうが、今の若者より惠まれていたかも知れない。
学校に行くにはカネが要る。勉強をして成績が上がってもそれでカネがもらえるわけではない。高校球児はカネを出して野球をしており、プロ野球選手は野球をしてカネをもらっている。
明治時代の学校制度ができたとき、親たちが反対したのもわかる。商家や農村では子供は家を継ぐから子供に家の仕事をさせながら、仕事に必要な読み書きなどを教えればよかったわけだ。
むしろ子供のうちから職業訓練をさせて、学校に行くのは仕事が一段落してからという風に、制度を改めたらどうか。
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2012年5/4
関連語句
注釋
ビクトル・スタルヒン
スタルヒンは沢村栄治(<澤村榮治)や川上哲治と同時代のピッチャーで、日本野球界で始めて300勝を記録した投手。名前は沢村や川上とともに『巨人の星』に登場する。
ナターシャさんが川村かおりと会ったことはないだろうが(検索)、もし会っていたらいいアドバイスができたのではないだろうか。
日本は大して変わっていなかった
それにしては満洲からの引き揚げ者が自国を批判しながらロシアや中国の責任を何も言わないのはどうも極端である。彼らが受けた被害の直接の「加害者」は当時の満洲にいたロシアやシナの人たちだろう。日本の関東軍は満洲の移民を見捨てたのに対し、「親切な中国人」は移民を育てたのだから帰国者が中国に恩を感じるのはわかるとして、ロシアの責任を棚に上げて自国(日本)政府ばかり訴えるのはいかがなものか。昨今の中国漁船が日本や韓国の船とトラブルになっていることを考えると、昭和の初めの東アジア近海でも似たことがあったとすれば、日本が日清・日露戦争から台湾占領、日韓併合、満洲国建国に至った理由も「外」にあったことがわかりそうなものだ。
東西冷戦下の自民党政権時代
もっとも民主党政権になっても東西冷戦はまだ終わっていないようだ。「日本・アメリカ・南韓(南朝鮮)」と「中国・ロシア・北韓(北朝鮮)」の対立は相変わらずである。最近の「人工衛星(と称するミサイル)」の問題では中国とロシアも北朝鮮を批判したようだ。
参照