『葵 徳川三代』で家康と秀忠が淀と秀頼を助けようとしたが、淀と秀頼は自害を選んだ。
『江~姫たちの戦国~』で秀忠は淀と秀頼を助けようとしていたが、大坂夏の陣の終わりで急に方針を変え、天下太平のために淀と秀頼を亡き者にすることを決断。

『江』では秀吉の朝鮮出兵を鶴松死去の悲しみのうっぷん晴らしなどを理由にした愚挙としているが、それなら時代劇の作り方次第では秀吉も「朝鮮との戦を望まなかったが朝鮮の出方のせいで戦になってしまった」「秀吉の部下が暴走した」という脚色も可能だろう。

戦国武将やその妻たちが戦をなくすために戦をしていたという解釋は、例えばアメリカが原爆投下を「戦争を終わらせるため」(実際は日本での核実験のためで、アメリカは原爆投下まで日本が降伏しないようにポツダム宣言の内容を工夫していたらしい)と主張するのと同じに見えるが、それなら「真珠湾攻撃も戦争を防ぐためだった」と言えるはずだ。
日中戦争も日本軍は戦争を防ごうとしていたことが、相手のせいで裏目に出たとも解釋できる。

例えば「伊藤博文は日韓併合を望まなかった」「東条英機はアメリカとの戦争を望まなかった」という解釋も可能である。特攻隊員について「実は特高に行きたくなかった」という脚色が可能なら、日本の軍部も戦を避けようとしたという解釋も可能ななずだ。

『水戸黄門』で水戸光圀は隠居後、自ら農業をしていて、政をする者は下々の者の暮らしを知らないといけないという信念を持っていたが、その下々に政を任せる民主主義を提案するところには到達していなかった。それは彼のあとを継いだ水戸徳川家から一橋家を経て将軍になった慶喜が大政奉還で達成した。『水戸黄門』で光圀の孫(厳密には甥の子)だった吉孚(よしざね、よしのぶ)と同じ読みとは奇遇である。

歴史上の権力者を反権力の英雄にしたり、戦で天下を取った将軍家の縁者を反戦思想家にする脚色には無理がある。

江戸幕府が滅んで143年経過した2011年になっても水戸光圀による「洗脳」は続いていた。水戸光圀は没後311年を経ても「水戸黄門幻想」という形で日本の民主化を妨げていたわけである。
『水戸黄門』による「洗脳」は1969年から数えると42年だが、『水戸黄門漫遊記』が作られた文化・文政から数えると約200年、そして光圀没から311年、光圀隠居から321年続いていたことになる。もっとも家光の1634年における忍び旅から377年。徳川家による「洗脳」は家光の時代から平成の世まで続いていたことになる。

ところで歴史ドラマと時代劇を別物にしたがる人たちが多いが、特撮ヒーローの実写ドラマは江戸物に喩えると歴史ドラマなのか、時代劇なのか。扱っている時代は現代だから歴史ドラマだが、内容は娯楽時代劇であり、むしろ娯楽時代劇はオトナ向けの特撮であった。

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2011年11月