ドラフトで日ハムが菅野(原辰徳の甥)を強行指名した。
長嶋一茂も最初はヤクルトに入り、巨人に移籍した。原監督の甥だからといって最初に巨人に入る必要はないだろう。
『ドカベン』で1994年秋のドラフトで巨人から指名された微笑三太郎は「巨人は選手層が厚い。俺はノンプロに入ったつもりで3年かけて一軍を目指す」と述べていた。巨人に入ってもすぐに一軍のレギュラーに入れるとは限らない。他球団で充電する手もあるだろう。何より巨人は他球団の選手を集めて巨人のユニフォームを着せて使うことをよくやっていた。

 

 

昨年、原巨人が沢村拓一を「一本釣り」したが、あれは他球団が「巨人の狙う球団には手を出さない」というように決めていたのだろうか。

 

 

 

『巨人の星』では星飛雄馬が高1、花形と左門が高3だった1967年秋、ドラフト会議が描かれていない。

 

 

 

星飛雄馬は巨人の入団テストを受けて合格(KC『巨』5、文庫『巨』3「アウトかセーフか?」)。
川上巨人は花形と左門の獲得を希望していた。花形は巨人以外の多くの球団からも誘われ、左門は巨人のほか、大洋から誘われていた。飛雄馬も巨人以外の多数の球団から誘われていた(KC『巨』5、文庫『巨』3「スカウト合戦」)。

 

 

 

星飛雄馬の巨人入団によって花形は阪神入団を決め、左門も大洋入りを決めて、いずれもハワイ遠征に向かう直前の空港で記者団に表明した(KC『巨』6、文庫『巨』4「おれはやるぞ」)。

 

 

 

その後、花形と左門はそれぞれ年末のキャンプに参加している。

 

 

 

飛雄馬が東映(現・日ハム)との二軍戦で初勝利。しかし藤村富美男監督に「当たると飛びやすい球質」を見抜かれ、試合の後半から外野にフライが飛ぶようになり、その一本が東映の初ヒットとなった。
牧場春彦のつけていたスコアを星一徹が見て青ざめ、それを聴いた左門が、投手を打席に近づけて打つ練習を開始。それを新聞で花形が知ったわけだ。

 

 

 

また、星飛雄馬が1976年のキャンプで巨人に復帰したとき(文庫『新巨』2「鳴動の章」)、花形満が1977年のキャンプでヤクルトに入ったとき(文庫『新巨』3~4「青嵐の章」)、いずれもその前のドラフトは描かれておらず、星も花形もドラフトを介さないでプロ球界に復帰したことになる。

 

 

 

『ドカベン』の山田太郎たちは1974年に明訓高校に入り、高2春選抜大会が1978年ごろ、高2夏の甲子園が1979年、高3春の選抜大会が1981年、高3夏の予選の直前が1991年(新潟明訓と対戦)、高3夏の甲子園が1985年、高校卒業が1995年春という経歴で、『ドカベン プロ野球編』では山田太郎は1976年生まれ、1983年小学校入学、明訓高校入学は1992年、高校2年は93年4月から94年3月までになっている。

 

 

 

1974年、高校入学当時の山田(1958~)
もし山田太郎が1974年4月高校入学で、普通の高校生と同様、3年後の1977年3月に高校を卒業していたら、1976年秋のドラフトの対象になっていたはずだ。プロデビューは9歳年上の花形満の復帰と同時期である。この場合、山田は原辰徳と同い年で1958年生まれである。

 

 

 

1978年、高2春、選抜大会決勝に出た山田(1961~)
もし山田太郎が1978年春で高2になったのであれば、1979年度で高3なので、ドカベン香川と同学年である。山田高2春の選抜大会では捕球した野手がスタンドに落ちた場合、アウトになるルールだった。

 

 

 

1979年、高2夏、弁慶高校に敗れた山田(1962~)
もし山田が1979年夏で高2であれば、1980年秋のドラフトの対象選手(高3)となる。原辰徳は大学生で藤田巨人から指名されたので、原辰徳は山田世代より4歳年上になる。

 

 

 

1985年、高3夏、『大甲子園』の山田(1967~)
もし山田が1985年度で高3であれば、85年秋のドラフトの対象になり、桑田真澄、清原和博と同期になっていたところだ。

 

 

 

1991年、高3夏、新潟明訓と練習時代で対戦した山田(1973~)
1991年秋のドラフトの対象。鈴木一朗、小林幹英と同学年。

 

 

 

1992年春、『プロ編』の山田(1976~)
1992年夏の甲子園で土佐丸、いわき東と対戦。この大会で星稜高校(石川)の松井秀喜(1974~)が5打席連続敬遠された。松井秀喜は山田より2年先輩になった。
『プロ編』の山田と同世代で同期の選手には城島健司(1976~)がいる。1994年秋のドラフトで指名された。
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2011年10/29 10月