時代劇の時代考証を検証(中世、元禄、享保、天保)
『水戸黄門』
1. 光圀は関東からほとんど出ていなかったし、副将軍という役職もなかった。
2. 第3部第1話で光圀に挨拶した小笠原佐渡守は老中になっていたが、それは1697年。一方、第1話でお新の父が死亡し、第2話で弥七が墓参りをしているが、墓には元禄三年とあり、1690年の設定になっている。
3. 『水戸黄門』で光貞が光圀の甥で、光圀に平伏していたが、実際は光貞は光圀の從兄で、光貞が1歳上。
4. 『水戸黄門』第2部最終回で光圀が綱吉に犬の皮を送り、憐みの令によって投獄された罪人たちの解き放ちを求めたが、実際は光圀没後も憐みの令は続いた。実際、のちのシリーズでも憐みの令は存続しており、光圀はこの令を「人や他の動物の命を大事にするための法」として価値を認めており、幕臣や奉行、代官の悪用が問題だった。
5. 『水戸黄門』第38部第5話でのちの吉宗が源六と名乗っていたが、同第9話が元禄丑年のできごとなので、当時は1697年、吉宗が江戸で綱吉に謁見した年で、当時、吉宗は名を源六から頼方と改めていた可能性が高い。
└→『水戸黄門』第38部第5話「暴れ若様まかり通る」(2008年2/4→2010年8/9再)
6. 『水戸黄門』第41部で助三郎が結婚、第42部でお娟が結婚してお供を引退したが、第42部では助三郎が独身に戻ったようで、しかも格之進が初めて光圀の家臣になっている。これにより、第41部までの話で助三郎、格之進、お娟が3人とも光圀に仕えていたので、これは第42話と矛盾する。
7. お娟が卒業した第42部では讃岐高松藩の松平頼豊が12歳だったので1691年が舞台と推定できるが、第38部では元禄丁丑年、1697年に光圀一行が敦賀を訪問したときもお娟がお供に参加していた。つまり第41部までと第42部以降はパラレルワールドであるから、第42部第1話で結婚したお娟は第41部までのお娟ではなく別人であり、第42部の新キャラクターとしての「第2のお娟」が第1話でいきなり商人と結婚したのであった。
8. 第43部の第11話で、光圀が訪れた知立は三河に属するが、劇中の人々は尾張の名古屋方言を使っていた。知立は尾張に近いので尾張方言の影響を受けていたか。
9. 第43部の第12話、伊勢・亀山での話で藩主・板倉周防守重冬の息子が5歳くらいだったが、この息子は長男・板倉重治としても1697年生まれなので数え年で5歳になったのは1701年。光圀はこの嫡男が5歳になる直前に他界している。
『水戸黄門』
1. 光圀は関東からほとんど出ていなかったし、副将軍という役職もなかった。
2. 第3部第1話で光圀に挨拶した小笠原佐渡守は老中になっていたが、それは1697年。一方、第1話でお新の父が死亡し、第2話で弥七が墓参りをしているが、墓には元禄三年とあり、1690年の設定になっている。
3. 『水戸黄門』で光貞が光圀の甥で、光圀に平伏していたが、実際は光貞は光圀の從兄で、光貞が1歳上。
4. 『水戸黄門』第2部最終回で光圀が綱吉に犬の皮を送り、憐みの令によって投獄された罪人たちの解き放ちを求めたが、実際は光圀没後も憐みの令は続いた。実際、のちのシリーズでも憐みの令は存続しており、光圀はこの令を「人や他の動物の命を大事にするための法」として価値を認めており、幕臣や奉行、代官の悪用が問題だった。
5. 『水戸黄門』第38部第5話でのちの吉宗が源六と名乗っていたが、同第9話が元禄丑年のできごとなので、当時は1697年、吉宗が江戸で綱吉に謁見した年で、当時、吉宗は名を源六から頼方と改めていた可能性が高い。
└→『水戸黄門』第38部第5話「暴れ若様まかり通る」(2008年2/4→2010年8/9再)
6. 『水戸黄門』第41部で助三郎が結婚、第42部でお娟が結婚してお供を引退したが、第42部では助三郎が独身に戻ったようで、しかも格之進が初めて光圀の家臣になっている。これにより、第41部までの話で助三郎、格之進、お娟が3人とも光圀に仕えていたので、これは第42話と矛盾する。
7. お娟が卒業した第42部では讃岐高松藩の松平頼豊が12歳だったので1691年が舞台と推定できるが、第38部では元禄丁丑年、1697年に光圀一行が敦賀を訪問したときもお娟がお供に参加していた。つまり第41部までと第42部以降はパラレルワールドであるから、第42部第1話で結婚したお娟は第41部までのお娟ではなく別人であり、第42部の新キャラクターとしての「第2のお娟」が第1話でいきなり商人と結婚したのであった。
8. 第43部の第11話で、光圀が訪れた知立は三河に属するが、劇中の人々は尾張の名古屋方言を使っていた。知立は尾張に近いので尾張方言の影響を受けていたか。
9. 第43部の第12話、伊勢・亀山での話で藩主・板倉周防守重冬の息子が5歳くらいだったが、この息子は長男・板倉重治としても1697年生まれなので数え年で5歳になったのは1701年。光圀はこの嫡男が5歳になる直前に他界している。
「水戸黄門」の第1部第3話、小田原が舞台(撮影場所は京都だろうが)の話で、ういろう(外郎)の看板が縱書きで「ういろう」。歴史的かなづかいでは「ういらう」のはずであるが、江戸時代には日本語の発音が今に近くなっており、かなづかいが混乱していたことだろう。
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「外」の音讀み「ガイ」は歷史的假名遣ひで「グワイ」gwaiである。
「外郎(ウイラウ)」では「ウイ」uiである。
これらはシナ語のwai,朝鮮語の「외」*oi>oe,weと同樣、本來、初めは圓唇の状態で發音された可能性がある。
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「外郎(ウイラウ)」では「ウイ」uiである。
これらはシナ語のwai,朝鮮語の「외」*oi>oe,weと同樣、本來、初めは圓唇の状態で發音された可能性がある。
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「水戸黄門」第6部第1話で光圀が言うには、薩摩の百姓は自分で作った米を食えず、薩摩芋を食べていたらしい。光圀隠居の時代は綱吉の治世の元禄年間。しかしネットで調べると薩摩芋が薩摩につたわったのは光圀没から数年後で、関東にひろまったのは吉宗が青木昆陽に栽培を命じた時である。
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「水戸黄門」について「ファイト」「チャンス」「ヤッホー」のやうなことばがあつたといふ噂があり、そこに突つ込む人が多いが、「水戸黄門」「暴れん坊将軍(將軍)」などで看板の「ういろう」や「ろうそく」が現代假名遣ひであることに突つ込んでもいいと思ふ。
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その他
1. 『柳生一族の陰謀』では家光は春日局の子で、家光は柳生十兵衛によって暗殺された。
2. 『葵 徳川三代』で江は初姫を伏見で出産したが、『江』では大坂到着後であった。
3. 『真田太平記』では千姫の願いを家康が聞き入れず、徳川の動き(攻撃?)でそれを知った淀と秀頼が自害したが、『葵』では家康は淀と秀頼を助けようとして、淀と秀頼が自ら自害した。
1. 『柳生一族の陰謀』では家光は春日局の子で、家光は柳生十兵衛によって暗殺された。
2. 『葵 徳川三代』で江は初姫を伏見で出産したが、『江』では大坂到着後であった。
3. 『真田太平記』では千姫の願いを家康が聞き入れず、徳川の動き(攻撃?)でそれを知った淀と秀頼が自害したが、『葵』では家康は淀と秀頼を助けようとして、淀と秀頼が自ら自害した。
『水戸黄門』の問題点は、印籠を使って相手を平伏させる手段が光圀にとって不本意であるはずなのに、光圀がそれに対する葛藤を持っている様子がないことだ。ちりめん問屋の光衛門(光右衛門)のままで旅を終えたいとか、そもそも旅などしないほうが世のためになるのではないかとか、考えてもよさそうなものである。
関連語句
時代劇の時代考証を検証 時代考証
参照
『暴れん坊将軍VI』再放送「五千両の恋泥棒!」
2011年10月11日~20日(古代史、日本史、時代劇、世界史、藤子作品、スポーツ、近現代~未来)
2011年10月21日~(古代史、日本史、時代劇、世界史、藤子作品、スポーツ、近現代~未来)
時代劇の時代考証を検証 時代考証
参照
『暴れん坊将軍VI』再放送「五千両の恋泥棒!」
2011年10月11日~20日(古代史、日本史、時代劇、世界史、藤子作品、スポーツ、近現代~未来)
2011年10月21日~(古代史、日本史、時代劇、世界史、藤子作品、スポーツ、近現代~未来)
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