1997年(平成9年)8月にクレスト社から刊行され、2000年(平成12年)に文春文庫となった。

 

文庫16ページで「古代、天皇は『大王』だった?」という節があり、渡部氏によると『古事記』では天皇を「皇尊(すめらみこと)」、『日本書紀』では「天皇」の字を当てていて、『日本書紀』には天皇を「大王(おほきみ>おお~)」と呼んだ記述はないらしい。

 

大野敏明氏は「歴史ドラマのウソホント」で『江~姫たちの戦国~』の時代考証の誤りを指摘する中で、「天皇」は明治以降になって一般化した用語だと述べている。
Y!Japan 歴史ドラマのウソホント 天皇

 

『葵 徳川三代』でも『江~姫たちの戦国~』でも「天皇家」という詞(ことば)が使われているが、小林よしのりの『天皇論』によると「天皇家」は現代語で、「皇室」が本来の言い方らしい。

 

2012年のNHK大河ドラマ『平清盛』の公式ホームページで天皇家を「王家」としている。

 

『葵 徳川三代』で朝鮮通信使が第3代将軍・家光を「日本國王」としていたが、では当時の朝鮮では日本の天皇をどう呼んでいたか気になる。

 

文庫30ページによると、一部の教科書では第29代欽明天皇を初代としているらしい。
応神天皇を初代とする解釋もあったと思う。

 

文庫110ページで「倭寇は海賊にあらず」とある。
『平清盛』で加藤浩次扮する海賊が登場し、撮影中、本人は「パイレーツ・オブ・コージーみたい」とご機嫌だったようだが、劇中でどう描かれることか。

 

193ページから「第六章 “一揆史観”は歴史にあらず」とある。
今の教科書では一揆や反乱の歴史ばかり繰り返されているということだ。

 

「一揆史観」は「何か不満があれば上に立つ物を引きずり降ろせばいい」という思想につながり、大衆は誰からトップに立つとそのトップを批判するだけで、毎年首相が変わっても何も事態が変わらない。

 

『水戸黄門』では権力の悪をそれより「上」の権力だけが倒すという歴史観が描かれており、それは百姓一揆が幕府を打倒できなかったことを意味する。
戦国時代の一向一揆は武将を倒すことはできず、信長は戦国武将同士の抗争で倒れた。

 

江戸幕府も同様で、天明の飢饉、一揆から寛政の改革までの時期はフランス革命の時代に相当するが、日本では改革を武家政権がおこなった。
最終的に幕末に江戸幕府を倒したのは豊臣でもなければ一揆でもなく、薩長の武家勢力であった。

 

『水戸黄門』に見られる他力本願、権威主義は結局、百姓一揆が幕府を倒せなかった歴史に起因するのだろう。

 

さて、この文庫の巻末近くの278ページでは「歴史教育に自由競争の風を」という節がある。
谷沢氏によると、評論家の山崎正和氏は以前から「歴史教育全廃論」を訴えていたらしい。
何も教科書を読まなくても図書館に行けば、歴史書、歴史小説がたくさん並んでいる。テレビでも時代劇、大河ドラマ、歴史ドキュメンタリーもあって、谷沢氏は「こんな時代に学校の教室で歴史教育をする必要があるのかという山崎正和氏の意見は傾聴に値します」(文庫280ページ)と言っていた。

 

「歴史小説やテレビ時代劇が多いから歴史教育は不要」ということらしい。
2011年にはテレビの地上波の連続時代劇が『江~姫たちの戦国~』と『水戸黄門』だけになり、『水戸黄門』の終了が決まった。そんな時代では思いもよらぬ考えである。

 

この本が最初に出たのは1997年である。
前年の1996年に個人視聴率調査が開始され、時代劇は高齢者が観る物だということが判明し、民放各局が連続時代劇を打ち切り、時代劇をスペシャル枠に移し、若者向け番組にシフトし始めていた。
山崎正和氏の考えは1980年代までの時代劇ブームを背景にしたものであろう。

 

「新しい歴史教科書をつくる会」が發足したとき、「教科書なんか変えてどうする」という批判があったようだが、そういう批判はこの会に言うのでなく、中国や韓国に言うべきであろう。
尾崎豊にとって教科書は落書き帖であり、授業は退屈で外を見て暇をつぶす時間であった。
教科書に何が書いてあっても覚えていない人は多いものだ。

 

 

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