江姫は「戦は嫌」と言いながら戦を止めることはできなかった。
戦のない時代を作ったのは戦をしていた家康であった。

江の場合、反戦の台詞への共感より、あちこちに口を出している行動が批判されている。

光圀は「世の中を動かしているのは民百姓」と言いながら、印籠で相手を屈服させることばかりして、最終的に身分制度をなくすことはできなかった。

江戸幕府を終わらせたのは水戸家の血を受け継ぐ慶喜であった。
光圀にとって最大の敵は江戸の柳沢吉保だったのだろうが、光圀は彼をどうすることもできなかった。
東野英治郎が演じた『水戸黄門』で柳沢の失脚が描かれたらしいが、西村晃のシリーズで復活したようで、実際、柳沢は光圀没後9年間、幕府の実権を握っていた。

光圀は効果のない世直しなどしないで水戸と江戸を何とかするほうに專念すべきであった。

江姫こと崇源院は1626年没。2年後の1628年に徳川光圀誕生。当時は家光の治世。
光圀の父・頼房は1603年生まれで、甥の家光より1歳だけ年上であった。

日本の時代劇では戦国時代の日本人は乱世を終わらせることを考え、戦を嫌いながらも、戦の原因となる敵を排除するためにやむを得ず戦をしていた。「天下太平の世を作るために避けられない戦がある」という理屈で、これなら日本が戦後に自衛隊を持ったのもわかる。

光圀の隠居の時代は秀吉の時代から1世紀、江戸時代の始まりから90年。家光の時代からの延長で、幕藩体制を強化することが太平の世を守るための前提で、豊臣復興を目指す倒幕派は悪とされた。
『水戸黄門』では倒幕派も開国派も密貿易も悪であった。

水戸光圀はは幕藩体制を潰すことはできず、最大の政敵だった柳沢吉保を失脚させることもできず、生類憐みの令についても綱吉を批判しながら、最終的には末端の運用の行き過ぎを監視する程度に治まった。
今の日本人が格差社会で苦しんでも資本主義に疑問を持たず、共産党も社民党も支持率が伸びない。首相が毎年変わっても国民は議院内閣制を廃止しようと思わない。江戸時代も同じであった。

柳沢の失脚と憐みの令の廃止は光圀没後9年たった綱吉死去の1709年まで待たねばならなかった。

『八代将軍吉宗』で描かれた綱吉の時代のバブル政治の後遺症は、綱吉の死後7年たって吉宗が享保の改革で補正した。しかし、吉宗の死後10年たつと家重から家治の世になり、田沼意次が賄賂政治を始め、綱吉のバブル時代が復活。家重から家治までの時代は『影の軍団II』『逃亡者おりん』で描かれている。

田沼時代には平賀源内や杉田玄白によって科学も進歩したが、同時代の西洋の産業革命を起こすまでには至らず、天明の飢饉が百姓一揆を何度も引き起こした。田沼失脚、家治死去、家斉が若くして将軍となり、松平定信が寛政の改革を行った。『仕掛人・藤枝梅安』の劇画によるとこの時点で幕府財政は破綻寸前。定信は祖父・吉宗の享保の改革を手本として改革を進めた。
日本の百姓一揆と同時期にフランスでは民衆がフランス革命を起こして王朝を倒したが、日本では一揆が幕府を倒すことはなかった。松平定信は隠密同心を組織し、また火盗改に長谷川平蔵を起用するなど、治安の維持につとめたが、対外的にはロシアからの通商の要求をはねつけた。その代わり、ロシアから帰国した大黒屋光太夫と会って光太夫からロシア事情を聴いていたようである。
この天明~寛政の時代に水戸藩主が幕政に何もできていないことから「副将軍」が無力だったとわかる。

寛政の改革は7年で終わり、家斉の治世の中期、文化・文政時代はまた田沼のような賄賂政治。『必殺仕置人』『闇を斬る!』と『八丁堀の七人』はこの時代の話だ。時代劇で「悪がはびこり、弱者が苦しむ」世の中が描かれることは多いが、それは舞台が田沼時代でも化政時代でも描かれている。
化政~天保初期の家斉の時代を受けて始まった家慶の治世の天保の改革は、1世紀前の享保の改革や半世紀前の寛政の改革を受け継いだはずだが、芝居や小説や音楽への締め付けが厳しく、これも民衆を苦しめた。これは『仕事人vsオール江戸警察』で描かれている。
この時期、水戸斉昭は遠山景元を北町奉行に推薦するくらいで、幕政への影響力はなかった。

天保の改革が終わって10年後、黒船が来航した。

先述のとおり、日本では一揆が幕府を倒せなかった。むしろ島原の乱、由井正雪の乱、大塩平八郎の乱、白虎隊、秩父事件のように弾圧された反体制運動が多く、日本人の「滅びの美学」はこれによって形成されたのかも知れない。
徳川秀忠は世の中を太平にするために豊臣を滅ぼした。すると徳川が滅べば日本はまた乱世になるのは目に見えていたが、幕末には攘夷派が倒幕運動を勧めた。光圀の時代には密貿易とされた交易を龍馬は夢見ていた。
開国後、明治になって尊王攘夷が復活し、日本は日清・日露戦争に進んだ。
江戸時代の初め、徳川秀忠が妻・江の親族でもある豊臣を滅ぼしてまで「戦のない世」を作ろうとしたが、大坂夏の陣から290年たった1905年までには東郷平八郎や乃木希典がまた戦をするようになっていた。
大坂夏の陣から300年たった1915年は第1次世界大戦のあった時代であった。

日本は戦争を放棄したが、日本さえ戦争をしなければ世界が平和であると考えたところが間違いだった。極端な話、もし日本が滅んでこの世からなくなったとして、日本以外の世界が戦争をしないで平和で共存できただろうか。日本が何もしなくてもアメリカとイラク、ロシアとグルジアは戦争をしてきた。日本近海では死者が出る騒ぎとなった。
むしろ旧日本軍が目指した大東亜共栄圏は、日本が天下統一をして戦のない太平の世を作るためだったのではなかろうか。

明治維新から100年ほど経過しても『水戸黄門』が印籠シーンで人々に権威主義と他力本願を植えつけていた。それから40数年経過。人々は政治に不満を言い続け、誰かがトップに立ったら周りがそれを引きずり下ろすことを繰り返してきた。『水戸黄門』終了は日本人が羅力本願から脱却するチャンスで、ここで『水戸黄門』待望論を出してはいけない。

なお、『平清盛』では皇室(王家)が武士を奴隷のように使って貧富の格差が強かった。それで武士が庶民の代表として天下取り→戦国時代劇では武士の世の中で乱世→太平の世を作るために徳川が武力で天下平定→それを維持するために『水戸黄門』などで徳川家が支配を強化い豊臣復興などで弾圧→幕藩体制に限界が来て黒船来航で開国→武士階級消滅というのが時代劇での歴史の流れになっている。

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2011年9/9(詳細) 9月