小説下巻では17ページで江と完が再会。
これは第十一章「三成」でのことで、舞台は元号が文禄から慶長に改まった1596年。
10月末に改元、12月17日に4歳の秀頼が元服、数日後、江は秀忠と一緒に祝儀の品を携えて大坂城の淀と秀頼を訪れた。

完は実の花である江を「叔母上」と呼んだ。江が秀忠に嫁いだときは、完子は淀に「伯母上は母上ではありませぬ」と言っていたのだが、淀の養女になって教育された結果らしい。小説で完子が江と再会したときには、淀は完に「完子、遠慮はいらぬ。母上をお呼び申し上げよ」と言っていた。
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これで思い出したのが『水戸黄門』における松平頼常である。光圀の実子であったが、光圀の兄の養子となり讃岐高松藩藩主となった。『水戸黄門』で光圀が高松を訪れた(これはフィクションで光圀は実際は熱海から西に行っていない)とき、頼常は義理の光圀を「父上」と呼んでいた。完にとって江が母から叔母になったのなら、頼常は光圀を「叔父上」と呼んだはずだ。光圀の兄の息子であった綱條も光圀を「父上」と呼んでおり、これは漢字で「義父上」と書いてもいいものだ。

秀次は秀吉の甥で、秀吉の養子になりながら、切腹寸前まで秀吉を「叔父上」と呼んでいた。
江が秀吉の養女にされていたようだが、そのような様子は態度から見受けられず、江は面と向かっても「秀吉様」と呼んでいた。諱(いみな)を口にしないというのは単なる建前だったようだ。

さて、この第32話の「江戸の鬼」とは大姥局のことであった。

朝鮮からすべての兵を引くことになり、秀吉の死は撤兵が完了するまで秘密となった。しかし、江が細川ガラシャに会ったとき、ガラシャも薄々感づいたようで、キリスト教式に祈っていた。

秀忠と江が江戸に行くことは極秘事項のはずであったが、江は淀に話すし、秀忠も石田三成に話すし、「ここだけの話をあちこちでする小市民」だらけである。北政所にも見抜かれていた。

家康が各戦国大名の家族の名前や年齢を確認。夜に灯りをつけてやっていたが、戦国時代の灯りはそんなに明るかったのだろうか?
家康は「おお、伊達政宗にむすめがおったか」と言って、見ていた紙にひらがなで「いろは」の文字。
北大路欣也は『独眼竜政宗』で政宗の父を演じていたが、政宗は『江』にはまだ登場していない。
政宗は江より年上で、『独眼竜』では本能寺の変のとき、政宗を2人目の子役(赤ん坊を除く)が演じていがが、『江』では本能寺の変のときの江を20代の上野樹里が演じていた。もし『江』に伊達政宗が早いうちから出ていたら年齢の関係がおかしくなったが、秀吉没の段階で江は26歳、伊達政宗は33歳だからそろそろ登場していいころだ。

『江~姫たちの戦国~』第33話(第33回)「徳川の嫁」
8月28日本放送(9月3日再放送)の第33話(第32回)「徳川の嫁」では小説新装版下巻の「第十一章 三成」の中の41ページにあった場面、朝鮮から戻った福島正則たちと三成の衝突が回想シーンで描かれていた。朝鮮から戻った兵たちは、自分たちが命がけで戦っているのに三成が安全な場所にいることに不満だったようだが、どうも次元が低い。蒙古襲来を防いだ鎌倉幕府軍の兵士たちが土地をもらえなかったことで不満だったようで、朝鮮出兵の兵士たちは太閤秀吉の死を知らされぬまま帰国を命じられた。その不満があったと思われるが、それなら福島正則たちは三成に「太閤様の身に何か」とでも尋ねるべきだった。
劇中では1599年の前田利家死去と珠姫誕生が描かれた。利家を演じていたのは『必殺仕業人』のやいとや又右衛門を演じていた大出俊。利家の最期の床に寄り添っていた女性は、後ろ姿だけだったが、『利家とまつ』のまつか?


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2011年8/21 8月