時代劇のテーマは「昔はこんなに良かった」ということか、それとも「昔はこんなに生活が不便で人々が苦しんでいた」ということか。

中国の歴史劇は「昔の中国はこんなにひどかった。革命でよくなった」という宣傳に見える。

日本の時代劇の場合、戦国時代の人が「戦は嫌です」と言ったり、江戸時代の人が「武士も町人も同じ人間」などと言うと却って白ける場合がある。

『水戸黄門』において現代の俳優が演じる光圀が言ってきた「平等思想」より、印籠という権威主義が大衆に受けたということは、現代人は時代劇に「今と違う価値観」を求めているのであろう。
『忠臣蔵』など47人の男が深夜から明け方にかけて人家に忍び込んで人々を殺傷し、老人(吉良義央)の首を切断して逃走した大犯罪である。日本人がこれを讃美するということは、日本人は明治維新を否定し、江戸時代に憧れているのではなかろうか。

呉智英氏は死刑を廃止して仇討ちを復活させることを主張している。
赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りが仇討ちでない(下注釋)のに仇討ちとされて、現代人から讃美されるのは、人々が司法や法律を信用せず、自己判断で人を裁くことに憧れているからであろう。
日本の時代劇は、日本人が歴史上、捨ててきたはずの身分制度や封建思想が当然だった武家政権時代を描き、それを批判する一方で、「古き良き時代」「人々の絆が深かった時代」として懐古する矛盾した性質を持っている。

日中・太平洋戦争(大東亜戦争)を描いた歴史ドラマで、劇中の人物が戦後のような反戦思想を言うと不自然に見えることがある。
『はだしのゲン』は戦時中は軍国少年に近く、兵隊さんに「アメリカをやっつけてくれと」と頼むこともあったが、その後、反戦思想を強めることになる。

『遠山の金さん』は警察署の署長が聞き込みまでやっているようなもので、また、裁判官が目撃者を兼ねていることを意味しており、20世紀末までこういう作品がヒットしていたということは、現代人は現代の警察、裁判制度に不満を持って、同じ人間が捜査と目撃と裁判を兼ねている制度を理想としていたのだろう。そういう強権力を持った人物が「悪人」であると取り返しのつかないことになるが、人々はそれを考えない。

現代裁判制度では物的証据が絶対とされ、噂だけでは犯人とされず、その意味で大相撲の八百長のように無実の判決が出てから証据が出ることもある。犯人は「どこに証据があるか」を白を切る。同義的な罪でなく法的に有罪か無罪かということだけが問題となり、同義的に謝罪していた者が、訴えられると手の平を返すように責任逃れをするのはよくあることだ。

『遠山の金さん』がヒットしていたのは、現代人の中に近代裁判制度に対する不満があったからではなかろうか。事件の当事者でもなく、現場にいなかった裁判官が裁き、しかも証据がないと無罪になる。こんな裁判への不満が『遠山の金さん』という「目撃者が裁判官」というパターンに対する支持となっていたのだろう。
『闇を斬る!大江戸犯科帳』などは大目付が「闇奉行の俺に証据なんざいらねえんだ」と言って悪人たちを斬りまくる話である。
『必殺仕事人』の主人公は法や裁判で無罪、無実となっている悪人を仕置する。
こういう時代劇の人気は、現代の法制度に生きる人間がその法制度への不満を持ち、その「はけ口」を求めていたことの表れであろう。

『水戸黄門』は政治倫理でなく身分制度の権威によって悪人を黙らせる話である。大衆がこれに喝采を送ったのは、大衆が現代の民主主義を信頼していないことを意味しているのだろう。一方で、権力の悪を権力が正してくれるという権力への信頼があったことの証しでもある。

『水戸黄門』では「悪事を働いた者は必ず罰せられる」というパターンがあるが、『水戸黄門』の対極にある必殺シリーズも同様である。東山紀之は必殺シリーズを観て「悪いことをしたらバチが当るということを子供心に教わった」と言っているので、意外なことに『水戸黄門』の勧善懲悪の教えを必殺から学んでいる視聴者もいたようである。

仕事人はあくまで自分たちの仕事としてやっているのであり、悪人が出ないような世の中を創ろうとは考えていない。
一方、『水戸黄門』では光圀は日本各地で悪人が出たらこらしめるだけで、悪人が出ない世の中を作る案を一向に考えていない。

『水戸黄門』をよく観ると光圀は藩侯に報告しているだけで、悪人たちが本当に罰せられたとは限らない。罰せられても別の悪人が出現する。これでは意味がない。その点は必殺シリーズも同じで、仕事人たちは「恨みを晴らしても新たな恨みを生むだけ」という葛藤をかかえている。『水戸黄門』の光圀は新たな旅を楽しみにするだけで「何度旅をしても悪代官がなくならない」という葛藤など少しもかかえてはいないようだ。

日テレ版『西遊記』では悟空(演:堺正章)が盗賊退治を志願したとき、太宗皇帝(演:中村敦夫)は「盗賊を倒してもまた貧しい者が盗賊になる」と言っていた。これは光圀や仕事人と対極にある姿勢だが、天竺の経を待っているだけでは、結局、『水戸黄門』の他力本願と同じである。

1990年代から21世紀にかけて『水戸黄門』『大岡越前』『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』といった権力の悪を権力が倒す時代劇が消えていった。必殺シリーズは悪が悪を倒す時代劇であった。こういった時代劇が消えていったのは、大衆が他力本願を捨てたからであろう。

前後一覧
2011年8/18前後


注釋
仇討ちでない
赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りは仇討ちではない。仇討ちは被害者(故人)の縁者が加害者を討つことだ。吉良上野介は浅野内匠頭を殺しておらず、逆に浅野内匠頭が吉良を殺そうとしたわけで、浅野が加害者で吉良が被害者。加害者の家臣(赤穂浪士)が被害者(吉良上野介)を恨むなど逆恨みも甚だしい。もし大石内蔵助らが浅野の切腹を不当と考えるなら浅野に切腹を命じた綱吉を討つべきであろう。大石らがしたことは浅野の仇討ちでなく、浅野がやった殺人未遂の犯罪を継承することであった。大東亜戦争で負けた旧日本軍が降伏を受け入れず、自己判断でアメリカに特攻するようなものだ。大石らの切腹処分は当然である。
裁判員制度で辞退したい人が多いのは、裁判制度そのものに何か問題があると考えたほうがいい。
もし私が裁判員に選ばれたら自分の思想・信条も感情も一切捨てて冷静(冷酷非情)に法律だけで、しかも訴訟で扱われた事案についてだけ裁きたいし、裁判官の立場であれば主文のあとの無駄な説教は一切しないで判決を終えたいと思う。


参照
時代劇(2011年8月16日~31日)