天正19年(1591年)が明けて間もなく、鶴松が病気になり、秀長も倒れた。

秀吉が「わしは日輪の子」と言ったことに対し、江姫が抗議すると、秀吉は「うるせえ」。これは江戸辯ではないのか? 戦国時代に秀吉も使っていたか。
それにしても秀吉は一度は江を「三の姫様」と呼んで敬語を使い平伏していたのに、両者の立場が変わると秀吉も態度が大きくなった。

秀長(演:袴田吉彦)の幼名は「こちく(小竹?)」で、大政所(演:奈良岡朋子)は秀長を「こちく」と呼んでいた。
『おんな太閤記』では「小一郎」だったと思うが。
『おんな太閤記』では大政所(演:赤木春恵)は秀吉(演:西田敏行)を一貫して「藤吉郎」と呼び、秀長(演:中村雅俊)を「小一郎」と呼び続けた。
『江~姫たちの戦国~』では清洲会議のとき、なか(のちの大政所)は秀吉を「秀吉」と呼び、のちに秀吉と再会したときには秀吉を「日吉(ひよし)」と呼んで、もとの言い方に戻っていた。
歴史にはいろいろな説があるようだ。

『江』では秀長は秀吉に「耳に痛いことを言うてくれる人を信じるんじゃぞ」と助言。『おんな太閤記』のときは秀長は病床で朝鮮出兵に反対の意見を言っていたと思うが、これも脚本家の解釋の違いか?

秀長の没後、鶴松は一旦は回復した。

利休(演:石坂浩二)は天下を獲ったあとの秀吉に興味がなくなったらしい。
『黄金の日日』で緒形拳が演じた秀吉でも描かれた世界だ。関白になったあたりから秀吉が「悪人」になったという解釋だ。

このドラマの利休は人や物を「好きか嫌いか」だけで判断するようだ。
いかにも藝術家らしい言い方であるが、むしろ大人になっても好き嫌いをはっきり言うのは女性のほうで、男は自分の好き嫌いであってもいかにも客観的な事実に見せかける言い方にしたり、人の意見に見せる言い方(「~と追われても仕方がない」など)をするものだ。
やはり女性の脚本だからこうなるのだろうか。

利休はかつて秀吉が面白い人だったから秀吉のために茶を立てたと言い、秀吉が面白くなくなったので、秀吉のために茶を立てるのも嫌になったと言っている。秀吉の政治に対して批判もあろうが、利休の言い方はまるで小学生同士の仲間外れの言いわけのようでもある。

ドラマで秀吉は利休に口頭で直接、切腹を命じた。小説の中巻137ページでは石田三成が利休に対する切腹処分を決めたと秀吉に告げている(第八章「利休」)。

第24話は「利休切腹」だったが、実際に利休が切腹したのは第25話「愛の嵐」。
内容から考えて第24話のサブタイトルを「朝鮮使節」、第25話のそれを「利休切腹」とすべきだったのではないか?

1594年(文禄3年)になると淀が初と江に「今年は父上の二十一回忌じゃ」と言っている(189ページ、第九章「秀頼」)。浅井長政は1573年に没しており、1594年は確かに没後21年だが、回忌であれば二十二回忌になるはず。二十一回忌は1593年だったのではなかろうか。
2011年は美空ひばりの二十三回忌で、美空ひばりは1989年没なので、22年後が二十三回忌であった。
└→浅井長政の二十一回忌

江姫は突撃レポーターのように戦国時代の事件の現場を目撃し、信長や光秀、秀吉や利休に意見を言っているが、結局、利休の切腹を止めることもできず、秀吉から命ぜられた結婚にも離縁にも從うだけであった。江姫がいくら男たちに「戦はやめてください」と叫んでも戦は止められなかった。
こうなると江姫の行動の空回りだけが目だってくる。

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2011年6/26 6月 7/4 7月