裁判とは当事者でない第三者である裁判官が「法」と「物的証据」によって事件を裁くものだ。
道義的に結果責任があるかも知れないが、法的には無罪という判断も出てくる。

裁判とは真実を明らかにする場ではないし、公平な判断がなされるとも限らない。

『ガリバー旅行記』では馬の国の話で馬とガリバーが近代社会の裁判制度を批判している。当事者でない裁判官が現れ、辯護士は黒を白に見せかける達人で、どうでもいい些細な話を繰り返して最後に判例を持ちだし、自分の牛が自分のものか赤の他人のものか決めるのに何十年も続く。
裁判とは一種の茶番劇である。

『白い巨塔』にあるように裁判所というのは被害者やその遺族のためにあるわけではない。

『遠山の金さん』の主人公・遠山左衛門尉景元(金四郎、1793~1855)は実在したが、ドラマでの描写はフィクションである。ドラマの遠山金四郎は捜査官と裁判官と目撃者を一人でやっているようなものだ。
これが長い間、大衆に支持されていたのは、大衆が本音のところで近代裁判制度を支持していないことを意味しているのだろう。

『忠臣蔵』で赤穂浪士47名がしたことは政府(幕府)による裁きを無視して加害者の部下が被害者を殺した大犯罪である。あたご衝突事故に関する海難審判と刑事裁判の判断の違いは「喧嘩両成敗」または「三方(双方?)一両損」に近い。赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支持する人たちは「喧嘩両成敗」を支持している。
『必殺仕事人』は法が裁かない加害者を裁く闇組織を描いている。
こういう作品が支持されているということは、現代の裁判が缺陥だらけだということだろう。

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2011年5/12 5月