古代 鎌倉~室町 戦国1 戦国2 江戸1 江戸2 18~19C西洋 


鎌倉幕府成立は一一九二年ではなかった!?(102ページ)
1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年で、7年前の1185年の壇ノ浦の合戦の年に鎌倉幕府の基礎ができていたらしい。この本では頼朝が諸国に守護、地頭を設置したのが1185年となっている。
Y!Japan 守護 地頭 1185
ただし、小林よしのりはこの「鎌倉時代は1185年から」の流れについて「武士を征夷大将軍に任命した天皇の権威を否定しようとする者たちによる考え」として否定している。
以前、小林よしのりが「新しい歴史教科書をつくる会」に参加していたとき、フランスの新聞が彼を「歴史修正主義者」として紹介した。
revisionism(修正主義)または revisionist(修正主義者)の revision とは re-(~し直す)と vision(姿、見通し)だから「見方を改める思想」「見方を改める人たち」の意味である。
すると「鎌倉時代の起こりは1192年でなく1185年」とする人たちも revisionist であろう。
歴史改竄は「改竄されていた歴史の修正」の名のもとにおこなわれるのが常のようだ。
「鎌倉時代1192→1182」は足利尊氏の肖像画の真偽と共に、歴史教科書の書き換えの中で「有名」な話である。

源義経は美男子ではなかった!?(104ページ)
義経は大陸に逃げてジンギス・カンになった!?(106ページ)
武蔵坊弁慶は実在しなかった!?(108ページ)
源頼朝は妻・政子に暗殺された!?(110ページ)
『知らないほうが幸せな話』88ページで「新選組の沖田総司はヒラメ顔で色黒」とある。
整形美容を希望した女の子にブラック・ジャックが言ったように美醜は時代によって変わるものだ。
「美男子だったという証拠はない」とあるが「義経がジンギスカンになった」という説にも「証拠」はない。この本ではそれを次の項目で「真相」にしている。
この本は「俗説出ない真相」と「真相でない俗説」を一緒にしているようだ。これは「真相でない俗説」のほうだろう。これも「説」だけで「証拠」がない。
ただ、光圀が編纂した『大日本史』で「義経は平泉を脱出し北海道へ逃げたのではないか」と書かれてあるらしい。これも憶測の域を出ない。それでいて弁慶の存在については「後世に創られた物語『義経記』で描かれた」として否定している。弁慶の存在が疑わしいなら「義経ジンギス・カン説」はもっと疑わしいだろう。
なお、もし、義経がジンギス・カン(チンギス・ハーン)だったとするとフビライ・ハーンは義経の孫になり、元寇は源氏の子孫と鎌倉幕府の内紛になる。しかも元寇は大河『北条時宗』で描かれており、鎌倉時代に頼朝の直径が途絶え、政治は源氏の将軍から北条家の執権に移っていた。
もし義経がチンギス・ハーンであれば(その可能性は低いが)、鎌倉幕府を乗っ取った北条家に対し「義経の子孫」が海外から戦を仕掛けたのが元寇ということになる。しかも北条政子が頼朝を暗殺したとすると、義経にとって北条家は兄の仇(かたき)である。「義経ジンギス・カン説」にはこういった背景もあるのではなかろうか。
ただ、モンゴルの当時の王家は世襲だったと思われるので、日本から来た移民を王にするか疑問である。
なお、『うる星やつら』では1173年に諸星あたるが烏天狗に化けて義経を京都見物に誘い、ラムが弁慶をけしかけて五条大橋で義経と勝負をさせた。その後、義経は生き延びて再婚、クラマというむすめが生まれ、このクラマが冷凍睡眠の末に諸星あたると対面したことになる。もしクラマ誕生が1190年ごろで、あたると出会ったのが1980年ごろとするとクラマは790歳だったことになる。
ところで大河『義経』では義経は一人で自害したことになっており、義経の妻や子供のことは触れられていない。静御前は愛人であり、静との間に子供は伯父であったはずの頼朝によって殺されている。

平清盛は「平家でなければ人でない」とは言っていない!?(112ページ)
└→『歴史の意外な真相』で書かれてある「真相」について(古代編)

元軍敗退の原因は神風ではなかった!?(122ページ)
これは1274年の文永の役と1281年の弘安の役のうち、最初の文永の役について「文永の役の時期を今のカレンダーに治すと一一月下旬になる、そんな時期に台風が来たとは考えにくい」と專門家が考えているそうだがこれも專門家個人の主観。「日本に対して強さを見せつけたことに満足して、元軍が自発的に引き上げたのが真相と見られている」とあるがそれも「見られている」だけであって、所詮は推測である。
何とか元軍の敗退を認めたくない人たちの勝手な解釋だろう。
また「一方、二度目の『弘安の役』(一二八一年)では、たしかに『神風』のようなものが吹いたようだ」とある。それでも『歴史の意外な真相』の作者はこの「神風」を効果を認めなくないようで、ここでは「高麗人の作った船の手抜き工事説」という「真相かどうかわからない俗説」に頼りたがる。「その際、元軍の多くの船がもろくも沈んでいる。その原因は、服属させた高麗人などに船をつくらせたことにあるとされる」とある。ではその「高麗人説」は誰の説なのか。專門家なのか。そこが曖昧である。
まるで高麗人が元の船に細工して日本を助けたような言い分だが、これも日本の強さを認めず、朝鮮を善玉にしたい人たちの作り話であろう。大体、元軍には高麗人も乗る可能性があるのに自分たちも乗るかもしれない船を手抜きで作るような自殺行為を普通の人がするだろうか。

一休さんはトンチ小僧ではなかった!?(126ページ)
『一休咄』で紹介されている話の多くは後世の創作で、シナの『酔菩提(醉~)』の焼き直しや、他の高僧の話を一休に置き換えたものらしい。
一休さんのトンチ(頓知、頓智)話の一つは国語の時間では一休と関係のない「附子(ぶす)」という狂言で習った記憶がある。これは中学のときに英語譯でも教わった。

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2011年3/29 3月