『水戸黄門』の場合、水戸光圀は町人に化けており、立ち回りのあと、悪人たちの前でもっぱら格之進が葵の紋を出して光圀の身分を明かす。
なぜもっと早く身分を明かさないのか不思議である。

『遠山の金さん』の場合、遠山金四郎が町人に化けて悪人たちと戦うが、その場では正体を明かさず、白洲で桜の彫り物を見せ、裁判官である遠山自身が目撃者でもあったことを示す。

光圀は1700年没で、遠山はそれから1世紀近く経過した1793年に生まれた。
光圀の隠居時代と遠山の北町奉行時代は150年の開きがある。

もし『水戸黄門』が『遠山の金さん』のパターンであれば光圀たちは立ち回りのときに正体を明かさず、あとで現地の城で謁見したときに顔を見せて正体を悟らせるパターンになるはずだ。
初期の『水戸黄門』でパターンが固定していなかった時期にはこういう話もあったかも知れない。

逆に、もし『遠山の金さん』が『水戸黄門』のパターンであれば遠山が立ち回りをしているときに北町奉行所の捕り方が現れ、与力が遠山を指差しながら、悪人に対し「このおかたは北町奉行遠山左衛門尉様なるぞ」と言うパターンになる。

『八百八町夢日記』では榊原忠之が町人や素浪人姿で捜査し、悪人の「夢」の字の書かれた扇子を見せ、クライマックスでは奉行の捕り物の姿で「北町奉行榊原主計頭忠之である」と言って現れ、扇子を投げて、悪人に自分(榊原忠之)が悪事の目撃者だったと悟らせる。
つまり遠山の立ち回りと白洲を一度にやっているのが榊原忠之であった。
なお、江戸時代においては榊原忠之が10年先である。

榊原忠之は1832年に鼠小僧を処刑したと見せかけて密偵として採用。1837年没。
後輩の遠山景元は1840年から1843年まで北町奉行であり、1845年から1852年まで南町奉行であった。
なお、『江戸を斬るII』では次郎吉は処刑された10年後も生きていた設定で、遠山と紫頭巾をサポートしていたようだ。

遠山が北町奉行だった時期、町人姿で江戸の町を歩いていた金四郎を南町の同心も見ていたはずだ。
遠山が南町奉行になったとき、遠山の北町奉行時代から南町奉行所につとめていた同心は、遠山を見て驚いただろう。

『遠山の金さん』のパターンは裁判官と目撃者が同一人物という形だが、これは裁判官自身が事件の現場に行かないと事件を解決できなかったことを示しており、警察と司法に缺陥があったと見ていいだろう。
もし遠山奉行が目撃者であれば、むしろ白洲での裁きは部下である与力が担当し、金四郎は証人として白洲に立ってもよかったはずだ。

なお、『暴れん坊将軍』では大岡忠相が裁く白洲に吉宗がだしぬけに証人として出現したことがあるが、『大岡越前』では越前の計らいで吉宗が身分を隠して白洲に出たことが少なくとも3度はあった。

時代劇『遠山の金さん』の世界は警察署の署長が自分で聴きこみ調査をしているようなもので、部下にろくな人材がいなかったことになる。『仕事人アヘン戦争へ行く』では金四郎は「時の政権と合わず窓際族」とされており、それも仕方ないか。
ただ西郷輝彦版『江戸を斬る』や松方弘樹版『金さん』で鳥居失脚後、遠山が南町奉行になっても同じような捜査をしていたのを見ると、北町奉行時代にお忍びが遠山金四郎の癖になっていた可能性がある。

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2011年3/8 3月