本能寺の変の前に家康がお江を呼び寄せ、お江が家康のそばにいたときに本能寺の変。
江姫が1573年生まれとすると、本能寺の変は1582年なので数え年10歳。

家康の伊賀越えにお江が同行。もちろんこんな描写は『江』で初めて観た。

ネットで調べると伊賀越えには服部正成、つまり服部半蔵が参加していた。
できれば江でなく半蔵を登場させてほしかったところだ。
なお、千葉真一主演『新・影の軍団』の舞台は豊臣の時代である。

『独眼竜政宗』ではこの事件は少年時代の政宗(1567年生まれなので本能寺の変のときは数え年16歳)に傳えられ、政宗の師匠だった僧侶は延暦寺焼き打ちを理由に、信長の悲劇を当然としていた。
『信長 THE KING OF ZIPANGU』では変の直後、確かお市が泣きながら「天罰じゃ」と繰り返していたと思う。

『江』で家康は江から本能寺の変の理由を訊かれ「明智殿本人のほかにはわかりません」との回答。
理屈はそうだが、会話としては「明智殿は織田様から数々の厳しい仕打ちを受けていましたが、羽柴殿もこの家康も同じ」ということくらいは言うべきであった。

家康と江は伊勢に到着するが、市と姉たちは移動しており、江は家康と別れたあとで野武士たちにつかまり、自ら明智光秀のもとに送ってもらう。
10歳の少女としては勇敢なのか無謀なのか。

江は光秀に謀叛の理由を問いただすが、光秀は「自分でもわからない。信長への不満を言えば限りないが…」と言っており、何か天の定めのような返答であった。現代社会で事件を起こした容疑者が「悪魔のせい」などと言ったら精神鑑定を受ける(「魔が差す」という言い方は西洋人が言うと「悪魔が私を動かした」になる)。
この番組では信長が家康に妻と信康の「処分」を命じたことについても、江がジャーナリストのように食い下がったが、信長はやはり自分でもわからないとの返答。
この番組ではいろいろな脚色をしているが、信長や光秀のしたことについて合理的な理由を考えられなかったようだ。
この場合、江姫が光秀に謀叛の理由を訊くくらいなら、茶々や初も連れてきて4人で会談でもしたほうがよかった。茶々とお初は浅井長政切腹の当時の様子を覚えており、信長を伯父というより父の仇と観ている。
本能寺の変の知らせを受けたとき、茶々と初は泣いていたが、心の中で浅井長政を思い出してもよさそうなものであった。

江姫は市や姉たちのもとに返される。侍女たちも家康と千利休の計らいで無事、戻されていた。

羽柴秀吉は備中の高松で本能寺の変の情報が描かれた書状を観たとき、秘密を守るためにその書状をもってきた物を処刑するよう家臣に命じており、『おんな太閤記』と『戦国疾風伝』ではその描写があったが『江』で割愛。

羽柴秀吉と明智光秀の戦いは戦闘シーンだけ割愛。これは脚本家が戦争嫌いだからだろうか。それなら戦国時代を選ばなければいい。

光秀は馬に乗り、家臣たちは歩いて森の中を逃げていたが、落ち武者狩りが竹槍で光秀を刺し、光秀はt落馬。家臣たちが落ち武者狩り数名を追い拂ったが、光秀は江姫を思い出しながら自決。
この描写は『天地人』では微妙に違った。『天地人』では鶴見辰吾が光秀を演じ、森の中で馬に乗らず歩いて逃げており、そこで落ち武者狩りに襲われ、その場で倒れて絶命。光秀が最後に思い出した相手は信長であった。

信長は比叡山延暦寺の僧たちを武装した僧兵として危険分子と看做していた。彼は外国と交流するのはいいが外国に飲み込まれぬように国内を統一する必要性を言っていた。信長はキリスト教の宣教師を大事にしたようだが、秀吉はキリスト教を敵視するようになったし、お江の息子である徳川家光は西洋列強を警戒してキリシタンを弾圧したのである。

本能寺の変のとき、直江兼続と石田三成は数え年23歳。
『天地人』では本能寺の変の当日、柴田勝家が魚津城を攻め、安部政吉らが戦死。なお、魚津城攻めには前田利家も参加していたらしい。直江兼続らは魚津城が落ちたことを知り、織田勢との戦を覚悟するが、織田勢が引き始めたので、直江は「光秀が謀叛を起こしたのでは」。何とも鋭い勘である。

大河では伊達政宗であれ、直江兼続であれ、本能寺の変のときはニュースを受け取るだけであったが、江姫の場合は家康の伊賀越えに参加し、当事者である光秀に「取材」までしている。
『江』で市は「おなごは思うがままに生きることができませぬ」と言っていたが、この番組の戦国の姫たちは結構勝手に言ったり動いたりして、しかも大事にされている。

この番組で光秀や秀吉は信長から何度も殴られているが、江も市も殴られていない。戦国時代の女は得だったのだろうか。

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2011年2/18 2月