『江』第2話で森坊丸・力丸兄弟と会った茶々(演:宮沢りえ)は「戦で死ぬのに立派も名誉もない」という趣旨の台詞を言っていた。大坂夏の陣で降伏を選ばず、秀頼とともに自害した淀がその36年前にこんな近代的な平和思想を持っていたとは誠に意外である。すると茶々が戦での死を「無駄」としながらも、その4年後には母・市が自害し、茶々自信も30年余りたってから自害を選んだことのほうが問題である。

これでは太平洋戦争の集団自決もあって当然であろう。
NHKは昭和の戦争について「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」などと悩む前に、戦国時代の戦争から検証したらどうか。

戦に批判的な江姫がその戦で天下泰平を目指した信長を支持したのも矛盾している。
『おんな太閤記』でねね(おね、北政所、高台院)が「戦をなくすための戦だと教わった」と言っていた台詞が封印されているが、結果としてはドラマで江姫のしているころは同じことだ。

それに『江~姫たちの戦国~』の脚本では信長の命令で家康の妻と息子(徳川信康)が死んだ理由も、光秀が信長を討った理由もきちんと説明できていない。光秀が信長を討った同機は信長が光秀に対しておこなった仕打ちが直接の理由であったが、それでも本当のところは光秀も自分でもわからないということだった。
現代人の脚本家が戦後の反戦思想で戦国時代を描くと、戦争の理由もきちんと説明できないのである。

戦国時代の人が戦を否定する意見を言うのを聴くと、江戸時代より先に昭和後期の戦後日本に移っていてもおかしくない。
『獅子の時代』で明治時代に主人公が民主憲法を作ろうとどれだけ苦労したか考えると、誠に奇妙である。

大坂夏の陣で淀は自害したが、お初と千姫(江のむすめ)は大坂城から逃げて生きのびた。

石坂浩二の大河出演は2004年の『新選組!』での佐久間象山の役以来だが、この2004年に芦田愛菜が生まれた。

高橋英樹は大河で島津斉彬と久光の兄弟を演じ、「兄弟を両方演じたのは俺くらい」と言っていた(『大河ドラマ大全』)。あとは宮沢りえがお初とお茶々を演じた例もある。
親子で同じ俳優は多く、中村勘九郎は『元禄太平記』で大石主税、『元禄繚乱』で大石内蔵助を演じた。西田敏行は『葵徳川三代』(2000年)で徳川秀忠、『功名が辻』(2006年)で徳川家康を演じている。

家康の息子は徳川(松平)信康、徳川秀忠で、いかにも織田、豊臣の時代の武士の名である。家光は江戸時代に生まれた将軍第1号であり、実質、家光から江戸時代の将軍と考えてもよかろう。

必殺シリーズのDVDマガジンと大河ドラマ50作記念の本が出た今、もし緒形拳が存命ならどうコメントしたかと思えてくる。

ドラマ『白旗の少女』では冒頭で幼い少年が「戦争が終わってほしくない。終わったら兵隊さんになれない」と言っていた。戦時中を扱ったドラマで劇中の子供が「戦争は早く終わってほしい」などと言うとかえって「戦後の脚本家の作品だろう」と考えてしまい、むしろ戦時中の人が戦時中の思想を言うドラマを観たほうが戦争の問題点を考えることができる。戦後数十年経過した主人公(作者)が「命の大切さ」と言って初めて戦争の悲惨さがわかる。
└→『白旗の少女』【作品】

戦国時代を扱った時代劇で当時の姫が「戦は嫌」「人が死ぬのは嫌」などと現代的な意見を言うと、むしろそんな綺麗事では戦争を何百年も防げないことになって、却って反戦のメッセージが傳わらないだろう。時代劇で戦国時代の兵が「戦をなくすために戦をするのだ」と言って、姫が「お手柄を期待しています」とでも言ったほうが、かえって「当時はひどい時代だったんだ」とわかる。
ところで最近読んだ週刊誌によると戦国武将は「天下統一」など考えていなかったという説が歴史研究家の間では有力らしい。秀吉と家康の天下統一は結果的なもので、戦国武将は乱世を終わらせようとは思っておらず、自分の領地を擴大することだけを考えていたらしい。

戦国時代の姫がすでに戦争に反対していたとすると、逆に言えば戦争は古代、中世から人類の歴史の中で「あって当然」であり、いつの時代も人々は「戦争に反対」していて、そんな「反戦思想」では何百年、何千年たっても戦争は防げないという結論になってしまう。
こうなると人類が歴史の積み重ねで反戦思想を得た成果が無意味になってしまい、反戦思想は古来からあって、戦争そのものはそれと無関係に続いていたことになってしまう。
日本の歴史ドラマでは「戦争放棄」は1946年の日本国憲法で得た思想ではなく、1570年前後の戦国時代から日本人が持っていた思想であり、戦はそれでも歴史上、何度もおこなわれていたことになり、日本が20世紀後半になって「戦争放棄」を憲法に明記したところで、そんなものは戦争を防ぐのに何の意味もないという結論になってしまう。

江が戦を否定する台詞を言うなら、せめて江戸時代の太平の世になって晩年の崇源院が言えばよかったわけだ。もちろん、1626年の崇源院没後も1637年の島原の乱、1863年の薩英戦争、明治以降の日清・日露、昭和の日中戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)といった戦争が続いたわけである。

戦国時代の人が戦を嫌っていたとすると、なぜ戦国時代に天皇への大政奉還がなかったのかが謎である。
室町時代は京都に幕府が存在した時代だ。武家政権が崩壊して、戦国武将が戦をしていたなら、天皇が統治して、領地配分も朝廷が決め、各地の領主が「首脳会議」でもして話し合いで決めればよかった。
おそらく戦国武将にはその時代が「乱世」という意識がそれほどなく、「天下統一」なども考えていなかったのではなかろうか。