この記事によると、梨田監督は斎藤佑樹の投げるボールを「重くない」と感じており、記事ではピッチャーの投げるボールに「重い」「軽い」の区別があるという40年前の日本野球界の「定説」を繰り返している。体格とも関係があるとも言われているとこの記事で言っている。

 

 

 

記事の中では『巨人の星』の星飛雄馬を引き合いに出して、斎藤佑樹も星飛雄馬のように魔球を次々を編み出す道を歩む可能性があると書いている。星飛雄馬は剛速球で甲子園を沸かせたが、プロ入り直後の球質の軽さが判明、大リーグボールという魔球を次々と編み出した。

 

 

 

『巨人の星』の左腕投手時代の星飛雄馬は1967年シーズン末に巨人に入り、実質、68年、69年、70年の3シーズンを投げて、3つの大リーグボールを編み出して左腕を破壊し、たった3年で引退した。
1970年師走に失踪し、5年余りのブランクのあと、『新巨人の星』では1976年に代打、代走として、同年後半から右投手として復帰し、『巨人のサムライ炎』では1979年に引退して二軍コーチになった。

 

 

 

この zakzak の記事の記者は斎藤佑樹が星飛雄馬と似た運命をたどると予想しているが、すると斎藤も魔球を3つ編み出し、下手をするとたった3年で故障して引退してしまうというのだろうか?
この記者がそこまで考えて星飛雄馬を引き合いに出したのか気になるところだ。

 

 

 

この記事によるとダルビッシュの投げるボールは「重い」とされるらしい。

 

 

 

一方、1977年から翌年まで『一発貫太くん』が放送されたとき、学研の『野球のひみつ』で『貫太くん』のキャラクターが起用され、そこで体格とボールの弾きの度合いの関係が完全に否定されている。
1977年から78年までは『新巨人の星』がアニメ化されていた時期である。
伴宙太が雪山の特訓で飛雄馬の缺点を指摘したのが1968年正月だったから、10年後にはその前提が一度は否定されていたわけだ。

 

 

 

2003年の Matthew Fargo 著『空想英語読本』でも、アメリカには野球の投手の投げるボールが「重い」「軽い」という概念すらないとしている。
そもそも体格とボールの「重さ」が関係するなら、斎藤佑樹は体重を増やせばボールも「重く」なるはずだ。『巨人の星』でも星飛雄馬が体重を増やそうとしなかったのが不思議であり、そこは『英語読本』の10年前に河崎実が『「巨人の星」の謎』(1993年)で指摘している。

 

 

 

一方、当のダルビッシュは斎藤佑樹に「プロは大学とは違い、自分の最高の球を打たれることもある」「たくさんの球種を覚えるより、カーブやスライダーといった同じ変化球でも、(曲がり方の違う)2種類を覚えたほうがいいのでは」とアドバイスしたらしい。

ダル、佑ちゃんに「2種類の同じ変化球」の勧め 2011.2.4 16:43 産経

 

 

 

「(曲がり方の違う)」の部分は記者が推測して加えたものだろう。ダルビッシュの趣旨はカーブ、スライダーという2種類を覚えることなのか、2種類のカーブや2種類のスライダーのように、それぞれ2種類ということだろうか。
今ではドロップも落ちるカーブと扱われるようで、横と縱の魔送球に近い。
もしカーブで2種類、スライダーで2種類という意味なら、星飛雄馬は大リーグボール1号を何度か改良している。ただ、2号に関しては監督の支持で外角にはずしたことがあるくらいで、曲がり方を工夫はしていなかったようだ。

 

 

 

『ドカベン』で明訓高校時代の殿馬が岩鬼東高校時代の緒方勉のフォークについて「いつでも同じ位置で変化し、1種類しかない」と指摘していた。
星飛雄馬の場合、いつも大リーグボールか速球かの二者擇一では戦力としてとぼしい。既存の変化球をマスターした上で大リーグボールを編み出すべきであっただろう。
ただ、『新巨人の星』で飛雄馬はシュート、スライダー、フォークまで投げており、しかも試合の解説者が「星のシュートは右投げになってから右打者に対して威力を増している」などと言っていた。すると飛雄馬は左投げ時代からシュートを投げていたのか?

 

 

 

1969年秋に金田正一が引退し、金田投手の左腕は変化球の投げすぎで曲がったまま真直ぐに戻せなくなっていた。星飛雄馬はその1年後に左腕を破壊して1970年師走から失踪した。

 

 

 

「球質の軽さ」というのは日本独自の「迷信」ではなかったのだろうか。

 

 

 

こういう記事もあった。「1球種2パターン」ならわかりやすい。

ダル先生が佑に秘策「1球種2パターンの法則」…日本ハム
スポーツ報知 2月5日(土)8時0分配信

 

 

 

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2011年2/4