ちよ、じろう、まさひろ、みち、さぶがそのまま年齢順であると假定。
ちよとみちは左門の二人の妹である。
牧場春彦が左門豊作の生い立ちを語ったときの回想シーンでは、左門豊作が小学生の4年から5年までの時期、すでに下の妹や弟5人は生まれていたわけで、豊作が10歳か11歳のとき、年が下のほうの妹と弟は2歳か3歳か。6人きょうだいの最大年齢差は10歳以下である。
ここで、下の弟や妹の年齢を「若く」見積もって、豊作が高校に入る寸前、一番下の弟である四男・さぶが0歳で次女のみちが1歳か2歳という相当無理のある假定をしても、『新巨人の星』ではこの二人は中学生か高校生くらいになっていたはずだ。
アニメ『新巨人の星II』に出てきたみちは一見、小学生に見えたが、小柄な中学生か高校生だったのだろう。20代の女のでも身長が小学生か中学生なみの人もたまにいる。
Y!Japan ちよ じろう まさひろ みち さぶ

 

 

高校時代、飛雄馬は左門の境遇に同情し、涙でストライクが入らず、左門に四球を与えた。だが、後続を連続三振に打ち取って左門を残塁としたので、結果としては左門を敬遠した作戦と同じである。
大LB1号の場合も左門に単打だけ打たせて後続を大LB1号で打ち取ってもよかった気がする。

 

 

 

高1夏甲子園準決勝で青雲高校の星飛雄馬は涙でコントロールが崩れ、左門を歩かせたが、続く熊本打線を連続三振に打ち取った。結果としては強打者・左門を敬遠して後続打線を抑えた策と同じであった。
tweet2012年12/4

 

 

 

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関連語句
左門 左門 ちよ [1] [2] 左門 ちよ 巨人の星

誕生日
星飛雄馬の誕生日は4月2日から7月までである。プロ野球編の飛雄馬の学年では中退しなければ1967年4月から68年3月まで高1、68年4月から69年3月まで高2であるが、1969年の宮崎キャンプで時点で17歳(アニメ「水原監督と星一徹」)、中退していなければ高2で(文庫第7巻、沖先生と出会った場面)、69年の前半戦で大リーグボール1号が復活したときは18歳(アニメ「見えないスイング」)であった。
花形満に関しては河崎実が『「巨人の星」の謎』で検証しており、『新巨人の星』で1977年の初夏、星飛雄馬が鷹ノ羽圭子と出会ったのが「少し早い七夕」で、その少しあとに花形満の誕生日パーティー、これは球宴前であった。
なお、河崎実は『「巨人の星」の謎』で星飛雄馬が1967年に青雲高校に入学したというプロ編の設定を採用し、星飛雄馬を1951年生まれとしているが、河崎氏は星占いから飛雄馬を2月生まれとしてしまい、これでは1951年生まれでも1966年高校入学になる。1967年高校入学で2月生まれなら1952年生まれである。太田幸司は1952年1月生まれで、この学年に相当する。

 

 

 

プロ1年目
1968年、妹たち、弟たちが上京し、左門と一緒に生活。大LB1号公式戦初披露と花形が1号を打った直後に妹たち登場。

 

 

 

プロ2年目
1969年、妹たち、弟たちが星飛雄馬の大LB2号をスパイ。「消える魔球は水に弱い」は原作では花形の台詞、アニメでは左門の台詞。

 

 

 

プロ3年目
1970年、左門が花形に大LB2号打倒で先を越され、3号編の初めと終盤に妹たち、弟たちが当時。アニメではちよが夜の東京の都会(新宿か?)で京子と初対面。

 

 

 

伴にメモ提供
左門が料亭で伴に左門メモ提供。

 

 

 

星と再び対決
1976年、打者・星飛雄馬の打った打球を左門が超美技で捕球。SSスライディングに対しシピンとの二重ブロック。球宴で飛雄馬の右での返球を見て左門落涙。後半戦で右投手・星と対戦。
1977年、左門が自宅で星の投球フォームをチェック。星を二軍に落とす。花形の誕生日パーティーに参加後半戦、不調になった星からヒットを奪う。
1978年、蜃気楼の魔球を打つ。

参照
スポーツ全般、梶原vs水島他(2011年2月)