春日局(1579~1643)は茶々より10歳下、お江より6歳年下であった。

ニュートン(Newton、1642~1727)は徳川綱吉(1646~1709)より4歳下。

康熙帝(1654~1722)は徳川綱條(1656~1718)と2歳差。乾隆帝が皇帝だったのは1661年からで、徳川光圀が水戸藩主になった時期である。翌年に徳川家宣(1662~1712)が生まれた。

乾隆帝(1711~1799)は徳川家重(1711~1761)と「同い年」であった。

鳥居耀蔵(1796~1844失脚~1873)とシーボルト(1796~1866)が同い年だったのも何かの因縁か。いずれも高野長英と関係がある。
高野長英は1839年の蛮社の獄で投獄されている。
長英が1844年に脱獄した直後に鳥居が失脚したのは皮肉な話で、長英がもし脱獄せず、少し辛抱していれば、釋放される可能性もあっただろう。
結局、長英が捕り方に見つかり、1850年に没した当時、遠山金四郎(1793~1855)は南町奉行であった。

マクスウェル(James Clerk Maxwell、1831~1879)は大久保利通(1830~1877)と同時代を生きた。

林則徐(1785~1850)の場合、徳川家斉(1773~1841)と家慶(1793~1853)の間の世代で、林則徐の生きた時代が家斉と家慶の将軍在職期間(家斉は1787年から1837年まで、家慶は1837年から1853年まで)と重なる。

ドップラー(Doppler、1803~1853)と徳川斉昭(1800~1860)、島津斉彬(1809~1858)も年齢が近かった。

アヘン戦争のときのビクトリア女王(1819~1901)は井伊直弼(1815~1860)と4歳違いだったが、没年はもっと年下だった福沢諭吉(1834または1835~1901)と一致する。

西太后(1835~1908)の生きた時代は篤姫(1835または1836~1883)と重なっており、これは西太后を扱ったNHKの番組で大河ドラマの脚本家が指摘している。

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