伊勢の浜辺で江が「やったー」
信長が安土城に市と3姉妹を招待。江姫が「やったー。伯父上に会える」。初が「父上のかたきとも知らないで」。
『龍馬伝』でも「やったー」が出たようで、大野敏明氏によるとこれは戦後のことば。確かに1970年くらいに子供の間ではやっていたと思う。
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【歴史ドラマのウソホント】「龍馬伝」(18) 「やったー」は戦後のことば
2010/11/01 16:19
信長が安土城に市と3姉妹を招待。江姫が「やったー。伯父上に会える」。初が「父上のかたきとも知らないで」。
『龍馬伝』でも「やったー」が出たようで、大野敏明氏によるとこれは戦後のことば。確かに1970年くらいに子供の間ではやっていたと思う。
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【歴史ドラマのウソホント】「龍馬伝」(18) 「やったー」は戦後のことば
2010/11/01 16:19
現代語を使ったのは『草燃える』からである。
なお、朝の連続テレビ小説『おひさま』に出演している井上真央のインタビュー記事がインターネットにあり、それを観ると、嬉しいときの「やったあ」は確かに昭和後期の現代語のようで、井上真央は昭和初期の女の子を演じる上で、アドリブでも別の表現にするよう心がけているらしい。
└→『おひさま』【作品】
└→『お江と戦国の女たち』『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 おひさま』
なお、朝の連続テレビ小説『おひさま』に出演している井上真央のインタビュー記事がインターネットにあり、それを観ると、嬉しいときの「やったあ」は確かに昭和後期の現代語のようで、井上真央は昭和初期の女の子を演じる上で、アドリブでも別の表現にするよう心がけているらしい。
└→『おひさま』【作品】
└→『お江と戦国の女たち』『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 おひさま』
3姉妹の年齢
第2話で3姉妹が信長と再会した場面では3人とも小学生の年齢でお江は7歳、今なら小学1年生か2年生の年齢。
戦国時代の女の子は成長が早かったのか。
3姉妹の年齢から考えて、第2話の時点でも引き続き芦田愛菜が出演してもよかったが、芦田愛菜は2011年春から小学生なので、大河で半年近く拘束するわけにはいかないのだろう。
第2話で3姉妹が信長と再会した場面では3人とも小学生の年齢でお江は7歳、今なら小学1年生か2年生の年齢。
戦国時代の女の子は成長が早かったのか。
3姉妹の年齢から考えて、第2話の時点でも引き続き芦田愛菜が出演してもよかったが、芦田愛菜は2011年春から小学生なので、大河で半年近く拘束するわけにはいかないのだろう。
第1話で浅井長政切腹直後、秀吉が市に「お市様、よくぞご無事で」。市「寄るでない」。茶々「母上、この者がかたきにございますか」。のちの太閤秀吉と淀君の初対面がこれであった。
第2話で真相を知った江が家康のいる部屋に行くとそこに羽柴秀吉が。江は秀吉に肉弾戦を仕掛け、家康によって止められる。のちに徳川秀忠の妻となる江と豊臣秀吉の「対決」がここで見られた。
第2話で真相を知った江が家康のいる部屋に行くとそこに羽柴秀吉が。江は秀吉に肉弾戦を仕掛け、家康によって止められる。のちに徳川秀忠の妻となる江と豊臣秀吉の「対決」がここで見られた。
市は「おなごは思うまま生きることができませぬ」と言ったが戦国時代は男も同じであった。
森坊丸、力丸兄弟の父の戦死はお初の生まれた年
第2話で信長が語ったところによると、第2話の舞台となった時代(1579年)から「9年前」に森蘭丸、坊丸、力丸兄弟の父親と長兄が戦死しており、そのときの相手は浅井長政だったらしい。これは1570年の話で、お初が生まれたときである。普通なら3姉妹がこれを聴いたら誰かが「お初の生まれたときだ」とでも言いそうなものだが、ドラマでは誰もそうは言わなかった。
第2話で信長が語ったところによると、第2話の舞台となった時代(1579年)から「9年前」に森蘭丸、坊丸、力丸兄弟の父親と長兄が戦死しており、そのときの相手は浅井長政だったらしい。これは1570年の話で、お初が生まれたときである。普通なら3姉妹がこれを聴いたら誰かが「お初の生まれたときだ」とでも言いそうなものだが、ドラマでは誰もそうは言わなかった。
戦において謝罪は無意味1
1579年、まず光秀が市と一対一で挨拶し「ご夫君・浅井長政様のご自害、さぞ心をお痛めかと」と述べ、市はもうそれを過去のこととしていた。
1579年、まず光秀が市と一対一で挨拶し「ご夫君・浅井長政様のご自害、さぞ心をお痛めかと」と述べ、市はもうそれを過去のこととしていた。
大坂城で自決した淀君は少女時代に「戦で死ぬのは名誉でない」との言?
森蘭丸の弟である森坊丸と森力丸が3姉妹と対面。森兄弟の一方(力丸か?)が浅井長政について「ご立派な最後」と言うと茶々は「戦で死ぬのに立派も名誉もありません」との言。36年後の1615年に茶々は秀頼とともに大坂城で自害したが、茶々は数え年11歳のときに「戦で死ぬのは名誉ではない」と考えていたのだろうか。それなら千姫とともに淀君も秀頼も生きる道を考えるべきだったろう。
ところで『真田太平記』では細川俊之が豊臣家の家臣を演じていた。
森蘭丸の弟である森坊丸と森力丸が3姉妹と対面。森兄弟の一方(力丸か?)が浅井長政について「ご立派な最後」と言うと茶々は「戦で死ぬのに立派も名誉もありません」との言。36年後の1615年に茶々は秀頼とともに大坂城で自害したが、茶々は数え年11歳のときに「戦で死ぬのは名誉ではない」と考えていたのだろうか。それなら千姫とともに淀君も秀頼も生きる道を考えるべきだったろう。
ところで『真田太平記』では細川俊之が豊臣家の家臣を演じていた。
戦において謝罪は無意味2
次に市と3姉妹が信長と再会するために大広間に出た。柴田勝家が「お辛いことが数々あったことと思います」との趣旨の挨拶し、途中でことばを止めた。次に家康が挨拶。
信長が来たのち、その場に来た羽柴秀吉が市を見つけ、自己判断で謝罪しようとしたらお江は長政切腹の真相を知って衝撃を受けていた。柴田勝家が怒って秀吉を殴打。勝家は「お前一人謝って気がすむと思うのか」「お市様と姫君にどれほど残酷なことを言っているかわからんのか」と激怒。
お市と3姉妹はその場を去った。
もしあのまま市たちが各武将の挨拶を受けていたら、相手からの謝罪という形で長政切腹の話を何度も聴かされ、「悲しい過去」を蒸し返されていた可能性がある。
戦争に関する謝罪というものが自己満足であり、相手にとって忘れたい記憶を何度も思い起こさせるという例である。
秀吉も信長に長く仕えながら気配りが足りない。
次に市と3姉妹が信長と再会するために大広間に出た。柴田勝家が「お辛いことが数々あったことと思います」との趣旨の挨拶し、途中でことばを止めた。次に家康が挨拶。
信長が来たのち、その場に来た羽柴秀吉が市を見つけ、自己判断で謝罪しようとしたらお江は長政切腹の真相を知って衝撃を受けていた。柴田勝家が怒って秀吉を殴打。勝家は「お前一人謝って気がすむと思うのか」「お市様と姫君にどれほど残酷なことを言っているかわからんのか」と激怒。
お市と3姉妹はその場を去った。
もしあのまま市たちが各武将の挨拶を受けていたら、相手からの謝罪という形で長政切腹の話を何度も聴かされ、「悲しい過去」を蒸し返されていた可能性がある。
戦争に関する謝罪というものが自己満足であり、相手にとって忘れたい記憶を何度も思い起こさせるという例である。
秀吉も信長に長く仕えながら気配りが足りない。
頭蓋骨の逸話について「噂」との解釋
お初は「信長は父・長政の髑髏(どくろ)で杯を作り酒を酌み交わした」と怒って言ったが、お江がこれを信長に問いただしたところ、信長は否定。髑髏を並べてその前で普通の杯で酒を飲み、戦死者に哀悼の意を示しただけらしい。
『戦国疾風伝』では信長が敗者の頭蓋骨で杯を作って酒を注ぎ、明智光秀に飲むよう強要する場面があった。歴史認識はドラマによって違う。『戦国疾風伝』信長の悪趣味のほか、必秀に対する仕打ちによって光秀が信長を恨むようになった。
『江』では髑髏の話が単なる噂で、むしろ秀吉が信長から厳しい仕打ちを受けて、それでも服從していた。これでは「本能寺の変は秀吉が仕組んだ」という陰謀説が出るのも当然であろう。
└→その2
お初は「信長は父・長政の髑髏(どくろ)で杯を作り酒を酌み交わした」と怒って言ったが、お江がこれを信長に問いただしたところ、信長は否定。髑髏を並べてその前で普通の杯で酒を飲み、戦死者に哀悼の意を示しただけらしい。
『戦国疾風伝』では信長が敗者の頭蓋骨で杯を作って酒を注ぎ、明智光秀に飲むよう強要する場面があった。歴史認識はドラマによって違う。『戦国疾風伝』信長の悪趣味のほか、必秀に対する仕打ちによって光秀が信長を恨むようになった。
『江』では髑髏の話が単なる噂で、むしろ秀吉が信長から厳しい仕打ちを受けて、それでも服從していた。これでは「本能寺の変は秀吉が仕組んだ」という陰謀説が出るのも当然であろう。
└→その2