個人的に『巨人の星』から学んだことは次のとおりである。

 

 

 

『忠臣蔵』
KC第5巻、文庫第3巻で星飛雄馬が巨人の入団テストを受けたとき(時代設定は1967年の秋)、花形満が星飛雄馬のテスト番号47を赤穂浪士四十七士に喩えた。
その後、1978年の『ヤッターマン』で『忠臣蔵』のパロディーが登場。
1992年生まれの桜庭みなみは18歳で『最後の忠臣蔵』に出るまで『忠臣蔵』を知らなかったらしいが、花形満は設定年齢18歳で『忠臣蔵』を知っていたようだ。

 

 

 

坂本龍馬
坂本龍馬という人物を知ったのも『巨人の星』が最初だったと思う。
一徹が龍馬の話を飛雄馬に語ったのは1968年正月、それを聴いた飛雄馬は奥多摩の雪山に特訓に出かけた。途中で伴宙太も合流。
これから10年後の1978年の正月、飛雄馬は一徹、伴とともにハワイで特訓。対照的である。

 

 

 

宮本武蔵が決闘の前に神に祈ろうとしてやめた話
これも1968年正月の話。1971年の『侍ジャイアンツ』にも登場する。

 

 

 

千葉周作と国定忠治
道場でのエピソードが語られたのは1967年秋、シーズン終了の時期であった。国定忠治はその後、『ドカベン』の赤城山高校の国定の名前にも採用されている。

 

 

 

山中鹿介
「我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈った侍。1970年のキャンプからオープン戦にかけて、星飛雄馬が消える魔球を打たれる寸前の時期に明子からの葉書での助言を受けて、この心境になった。
山中鹿介の話は『侍ジャイアンツ』にも登場し、武蔵の話とともに梶原一騎が人生の教えにしているのだろう。藤子不二雄コンビも漫画で使っており、『オバケのQ太郎』と『ドラえもん』で紹介されている。

 

 

 

沢村栄治、スタルヒン、金田正一
往年の巨人の名投手。特に沢村とスタルヒンについては『巨人の星』で知ったのが最初。金田が400勝を記録して1969年秋に引退したことも『巨人の星』で描かれている。
ただ、スタルヒンがロシア人だったことは最近知った。
金田正一の「正一」は「まさいち」「しょういち」両方の読みが使われていたようで、『特ダネ登場』では「かねさまさいちさん」と紹介されていた。それで小学生のとき、級友の間で「金田はショウイチかマサイチか」で論争になったことがある。
2006年、巨人軍の若手の選手が金田正一を「カネムラさん」と呼び、勝利数についても「300何勝」などと言って、広岡氏が激怒し、原監督が面目丸つぶれだったらしい。
元巨人の投手で他球団での記録を合わせた場合、初の300勝はスタルヒン、400勝投手は金田正一である。また、金田正一の背番号34は巨人軍の永久缺番の一つとなっており、このことも『巨人の星』で書かれてある。

 

 

 

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2010年12/11